芸術写真の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 07:52 UTC 版)
日本における芸術写真の始まりは、1905年ごろと考えられる。まず、ゆふつヾ社が1904年に結成され(秋山轍輔、加藤精一ら)、次第に、芸術写真に向かっていった。ゆふつヾ社の流れで東京写真研究会が1907年に結成され、その展覧会である「研展」(けんてん)が開催される中、野島康三ら芸術写真の代表的な写真家が登場してきた。一方関西では、浪華写真倶楽部が1904年に結成され、その展覧会である「浪展」(なみてん)が開催され、米谷紅浪ら芸術写真の代表的な写真家が登場してきている。1910年代には芸術写真は日本の写真の中では主流化し、野島らが大いに活躍する。 1920年代には、1921年に大阪で写真研究家の上田竹翁とその次男箸尾文雄、写真家の不動健治らがまず「藝術冩眞社」を興し、その後商業雑誌『藝術冩眞』を刊行した。竹翁はピクトリアリスムの理論家、ホースレイ・ヒントンの主著の翻訳者でもあり、彼自身も写真技術に関する夥しい数の著書、訳書を持ち、1920年に『写真術百科大辞典』という、上巻のみで五百二十五ページに及ぶ大著を著わしている。1910年代にパリに赴いたのち帰国した福原信三も、1921年に竹翁らに遅れて同人誌、『写真芸術』を創刊(1923年まで)し、1922年に写真集『巴里とセイヌ』を刊行した。特に、『巴里とセイヌ』は日本の芸術写真の代表作といえる。福原は他にも、『光と其諧調』(1923年)などを刊行している。 その他、「ベス単派」と(光大派、表現派とも)呼ばれるような、高山正隆、山本牧彦、渡辺淳ら(中島謙吉の『カメラ』『芸術写真研究』(いずれも、アルスから刊行。前者は1921年創刊、後者は1922年創刊)または光大社から出てきた)も芸術写真の作品を制作して活躍した。 なぜ芸術写真が起こったのかであるが、これはもともと写真技術を科学技術ととらえる見方が強かったのに対し、英国でこれを独立した芸術分野として確立しようとする運動が起こったのを嚆矢とする。絵画を模倣したものであるというのは誤解である。写真技術によって、それまで唯一視覚的な写実表現に携わっていた絵画が、その存在意義を問い直された結果、決して写真に写るものが人間が視覚を通じて認識しているものの実際のあり方ではないという批判が起こった。現実には、写真機が写すのは事物のフォルムだけであり、認知のために重要なものとそうでないものを区別しつつ、対象のイデーを感知する人間の視覚は、むしろ絵画表現によってこそ再現されるという立場もあった。そうした反論も意識しつつ、写真機によって写されたものを改良し、芸術としてより高めようと試みたのがそもそもの芸術写真である。 1923年の関東大震災をも1つの契機として、1920年代中ごろから、都市化、近代化が著しく進行し、日本における前衛美術の展開も活発化し、写真の分野でも、芸術写真の枠を超える先鋭化した表現が技術的にも可能になってきた(芸術写真だけが、唯一取り得る、芸術的な写真表現ではなくなった)。また、欧米においてストレートフォトグラフィやノイエ・フォトの傾向が顕著になってきていた。これらを受け、淵上白陽ら(日本光画芸術協会)の「構成派」を経由して、そのような新しい表現を用いた作品が徐々に出始め、新興写真への道が、開かれていった。なお、日本の写真の主流が芸術写真から新興写真へ移行した後も、芸術写真はなくなることなく、必ずしも太い流れではないが、戦後へと確実に継続している。
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