芸予要塞
芸予要塞
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/04 02:04 UTC 版)
「大久野島灯台」を参照 最初に近代的施設が建てられたのは、大日本帝国陸軍の施設ではなく、逓信省大久野島灯台である。四国と大島に挟まれた来島海峡は海の難所であったため、それを避けるよう副航路として北側を大きく迂回する三原瀬戸航路が用いられることとなり、大久野島灯台はその航路上に置かれた9つの灯台のうちの一つで、明治27年(1894年)5月に点灯した。なお現在の灯台は2代目である。 「芸予要塞」を参照 その次にできるのが陸軍の大久野島砲台(芸予要塞)である。明治初期、瀬戸内海から京阪への欧州列強の艦船の侵攻に備えるため、狭隘部である紀淡海峡、鳴門海峡、豊予海峡、下関海峡に沿岸要塞砲台を置くことになった。豊予だけは当時の要塞砲(海岸砲)の最大射程より海峡幅の方が広かったため、別案として立てられたのが芸予要塞である。計画自体は明治6年(1873年)『海岸防禦法案』から始まったもので、最終的に忠海海峡のこの島と来島海峡の小島の2つに決定したのは日清戦争後の明治30年(1897年)、そして芸予要塞の全ての工事が明治35年(1902年)竣工した。資料によっては、日露戦争に向けて対ロシア海軍用に急ピッチで造られたと言われている。明治38年(1905年)倉橋島の南を震源として芸予地震が起こるが砲台に被害があったかは不明。後に国防方針変更、要塞砲射程距離の向上、第一次世界大戦で航空機が登場したことにより、既存要塞の整理が行われて新たに豊予要塞ができ、大正13年(1924年)芸予要塞は一度も用いられないまま廃止となった。施設はのち毒ガス保管所など改築されたものも含め遺構として現在も残る。 この島は昭和初期「地図から消された島」であった。現在一般的には、陸軍の毒ガス工場があったため機密性から秘匿され当時の一般向け地図においてこの一帯は空白地域として扱われたと言われているが、実際にはそれより古い明治・大正時代から芸予要塞司令部による検閲が入っており、地図では要塞秘匿のため来島海峡からこの島付近一帯まで赤く塗り潰されていた。なお、昭和7年(1932年)時点での軍事極秘の理由は「呉要塞近傍」であるが、呉要塞とは陸軍広島湾要塞の旧称でこの時点は廃止され海軍呉鎮守府に移管されていることから、海軍も検閲していたことになる。 @media all and (max-width:720px){body.skin-minerva .mw-parser-output div.mw-graph{min-width:auto!important;max-width:100%;overflow-x:auto;overflow-y:visible}}.mw-parser-output .mw-graph-img{width:inherit;height:inherit} [全画面表示] 大久野島のみではなく周辺一帯を消していた。
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