芝居小屋建設ラッシュと日立鉱山
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「共楽館」の記事における「芝居小屋建設ラッシュと日立鉱山」の解説
日立鉱山が急速な発展を見せた20世紀初頭はまた、大衆文化としての舞台芸能が定着しつつあった時代でもあった。歌舞伎以外にも手品、漫才、サーカスなどといった演芸、新派劇や娯楽性の強い軽演劇が上演され、また映画も台頭し始めた。大衆文化としての舞台芸能の隆盛は劇場の建設が進められるきっかけとなり、日本各地で多くの劇場が建設されることになった。 鉱山の急速な発展に伴い、多くの人々が暮らすようになった日立でも劇場の建設が始まった。明治末期には日立座、そして1913年(大正2年)には栄座という劇場が建設された。このような中、鉱山という荒々しい環境の中で、息抜きの場としての娯楽施設の活用に着目した日立鉱山の経営陣は、劇場の建設を進めることになった。 久原房之助を中心とした日立鉱山の経営陣は、特に鉱山労働者たちの中に過度の飲酒による弊害があることを憂慮していた。過度の飲酒の弊害としては喧嘩、無断欠勤、職場における災害の原因、そして家計の逼迫などが挙げられており、この問題にどのように対処するのかは鉱山経営陣にとって悩みの種であった。まず酒は鉱夫1人につき1日2合を限度とする供給制を取り、節酒を心がけさせようと試みたものの、日立鉱山は交通の便が良いこともあって、鉱山外にある飲食店に繰り出して酒を飲むことも少なくなかった。そこで鉱山内に劇場を建設して、鉱山労働者たちに飲酒に代わる遊興の場を設け、精神的な慰安をもたらそうと考えた。 日立鉱山ではまず1913年(大正2年)1月、精錬の中心地である大雄院に役員用の福利厚生施設として集会場が建設された。集会場は役員間の会議や講演会の会場などに活用される他に、碁盤、将棋盤など娯楽用の道具が各種備えられ、集会場を会場としてイベントも行われており、役員やその家族の余暇に利用された。続いて1913年(大正2年)8月には鉱山労働者のための福利厚生施設である本山劇場が開場した。本山劇場は日立鉱山の採鉱の中心地である本山地区に建設された。そして精錬の中心地である大雄院地区にも鉱山労働者たちのための劇場建設が計画された。大雄院地区の劇場、すなわち共楽館の建設で中心的な役割を果たしたと考えられるのが庶務課長の角弥太郎であった。角は日立鉱山の鉱害問題解決の陣頭指揮を取り、また鉱山労働者たちの待遇改善に尽力しており、当時、鉱夫たちから慈父のようだと慕われていた人物であった。角は1916年(大正5年)から翌1917年(大正6年)にかけての第一次世界大戦時の好景気と、同じ時期、煙害対策が功を奏して鉱害問題も落ち着きつつあった情勢を見て、鉱山の各施設を充実させる絶好のチャンスであると捉えた。共楽館はこのような中、1916年(大正5年)に建設が開始された。 第一次世界大戦時の好景気時には、日立鉱山以外の多くの鉱山においても劇場、鉱夫クラブといった鉱山労働者たちの福利厚生施設の整備が盛んに進められた。共楽館とほぼ同時期に建設が進められた鉱山併設の劇場、鉱夫クラブとしては、25,000円あまりを投じて建設された三池炭鉱萬田講堂・倶楽部、同じく25,092円を投じて建設された砂川炭鉱互楽館、別子銅山四阪島劇場、夕張炭鉱演芸場などがあるが、日立鉱山の共楽館は他の鉱山の福利厚生施設を上回る、約35,000円を投じて建設が進められた。
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