臣籍降下後
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1947年(昭和22年)10月14日に皇籍離脱し、久邇の姓を賜り久邇朝融となった。海軍軍人であったため公職追放となる(1952年解除)。 戦後は『久邇香水』の製造販売を手掛ける等幾つかの事業を興すがいずれも上手くいかず、赤字を補填するために広尾の本邸(現在は聖心女子大学「パレス」)、熱海と赤倉温泉の別邸を売却し、渋谷常磐松の母・俔子の隠居所に5人の子供と転がり込んだが、ここも飯野海運社長・俣野健輔の手に渡った。 生活に窮した朝融は、東本願寺に嫁いでいる妹・智子裏方に頼み、当時米国留学中だった大谷光紹の住まいである成護院別邸に入ろうとしたが、門徒代表の反対に遇い断念した 。 1959年(昭和34年)12月7日に死去。
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臣籍降下後
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その後の生涯は波乱に満ちたものであった。最初に新宿西口に闇市の食料品店を開店したが売上が全く伸びず、その後も喫茶店の営業や東久迩家所蔵の骨董品の販売を行ったがいずれも長続きしなかった。 その理由は東久邇本人が曲がったことが大嫌いで、闇市で商売をしているにもかかわらず、他の商店とは異なり、正規品を正規のままの価格で取り扱い、一切不正をしなかったことが原因だった。回想録によると東久邇は、貧しかったが国民と共に必死に働いたことではじめて国民生活を知り、充実した人生を送れたと語っている。1948年(昭和23年)には、尾崎行雄・賀川豊彦・下中弥三郎・湯川秀樹と共に「世界連邦建設同盟」(現在の世界連邦運動協会)を創設した。同年10月、兵器処理問題に関し、衆議院不当財産取引調査特別委員会に津島寿一、渋沢敬三、次田大三郎らとともに証人喚問された。 1950年(昭和25年)4月15日に禅宗系の新宗教団体「ひがしくに教」を開教したが、同年6月、元皇族が宗教団体を興すことには問題があるとして法務府から「ひがしくに教」の教名使用の禁止を通告された。「ひがしくに教」はもともと「平和教」という名称だったが、GHQの指導によって「ひがしくに教」となってしまった。また、東京都からも宗教法人として認可されなかった。このため、任意団体のまま実質解散となった。同年フリーメイソンに入会。1957年(昭和32年)6月、東京の友愛ロッジにて「メイソン」になる。 1960年(昭和35年)、六十年安保闘争をめぐる騒動で、石橋湛山・片山哲とともに三人の首相経験者の連名で時の首相岸信介に退陣を勧告。1964年(昭和39年)4月29日、菊紋の銀杯一組を賜る。1971年(昭和46年)には桟勝正が創設した日本文化振興会の初代総裁になる。 1978年(昭和53年)、聡子夫人と死別。
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