臣籍降下後とは? わかりやすく解説

臣籍降下後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:16 UTC 版)

久邇宮朝融王」の記事における「臣籍降下後」の解説

1947年昭和22年10月14日皇籍離脱し、久邇の姓を賜り久邇朝融となった海軍軍人であったため公職追放となる(1952年解除)。 戦後は『久邇香水』の製造販売手掛ける幾つかの事業興すいずれも上手くいかず、赤字補填するために広尾本邸(現在は聖心女子大学パレス」)、熱海赤倉温泉別邸売却し渋谷常磐松の母・俔子隠居所に5人の子供と転がり込んだが、ここも飯野海運社長俣野健輔の手渡った。 生活に窮した朝融は、東本願寺嫁いでいる妹・智子裏方頼み当時米国留学中だった大谷光紹住まいである成護院別邸入ろうとしたが、門徒代表の反対に遇い断念した1959年昭和34年12月7日死去

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臣籍降下後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:46 UTC 版)

東久邇宮稔彦王」の記事における「臣籍降下後」の解説

その後の生涯波乱満ちたものであった最初に新宿西口闇市食料品店開店した売上が全く伸びず、その後喫茶店営業や東久迩家所骨董品販売行ったいずれも長続きしなかった。 その理由は東久邇本人曲がったこと大嫌いで、闇市商売をしているにもかかわらず、他の商店とは異なり正規品正規のままの価格取り扱い一切不正をしなかったことが原因だった。回想録によると東久邇は、貧しかった国民と共に必死に働いたことではじめ国民生活知り充実した人生送れたと語っている。1948年昭和23年)には、尾崎行雄賀川豊彦下中弥三郎湯川秀樹と共に世界連邦建設同盟」(現在の世界連邦運動協会)を創設した同年10月兵器処理問題関し衆議院不当財産取引調査特別委員会津島寿一渋沢敬三次田大三郎とともに証人喚問された。 1950年昭和25年4月15日禅宗系新宗教団体ひがしくに教」を開教したが、同年6月元皇族宗教団体興すことには問題があるとして法務府から「ひがしくに教」の教名使用禁止通告された。「ひがしくに教」はもともと「平和教」という名称だったが、GHQ指導によって「ひがしくに教となってしまった。また、東京都から宗教法人として認可されなかった。このため任意団体のまま実質解散となった同年フリーメイソン入会1957年昭和32年6月東京友愛ロッジにて「メイソン」になる。 1960年昭和35年)、六十年安保闘争をめぐる騒動で、石橋湛山片山哲とともに三人首相経験者連名時の首相岸信介退陣勧告1964年昭和39年4月29日菊紋銀杯一組賜る1971年昭和46年)には桟勝正創設した日本文化振興会初代総裁になる。 1978年昭和53年)、聡子夫人死別

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