羅漢図のその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 07:34 UTC 版)
「五百羅漢図」は出家して名前が変わった妻妙安や、一信夫妻に子はなかったため逸見家の養子となった、弟子の一純(かずよし)らの手で完成された。一信没年の12月に妙安は96幅を増上寺に納め、翌年1月13日開眼供養が行われた。妙安は、明治初期の廃仏毀釈にさらされても「五百羅漢図」を守りぬき、明治11年(1878年)羅漢を安置するため、増上寺内に自ら尽力して建立した羅漢堂の堂主となった。この時妙安は、資金集めのため五百羅漢図の副本を作成し、全国の関連寺院に頒布、購入を呼びかけたらしく、清凉寺や蔵田寺(横浜市戸塚区)、萬年寺(広島県福山市)などに所蔵されている。羅漢堂で妙安は、「五百羅漢図」の内6幅ないし8幅を月毎に掛け、参詣者に絵解きをしたという。洋画家の黒田清輝は、洋行中に一信のことを尋ねられて答えに窮したため、帰国後一信の事績を調べて、羅漢堂に訪れ妙安にも会い、その画技に感嘆したという。 妙安死後は一純が堂主を継いだが、昭和20年(1945年)5月に戦災で羅漢堂は焼失。「五百羅漢図」は、別の建物に保管されていたため被害を免れた。「五百羅漢図」は増上寺に改めて保管されることになったが、広く公開される機会と場所を失ってしまった。しかし、昭和58年(1983年)「五百羅漢図」が港区指定文化財にされたのが契機となって、東京都港区教育委員会によって作品調査の実施と調査報告書の刊行され、各地の展覧会に「五百羅漢図」が展観される機会が増えつつある。2012年春には、アメリカのアーサー・M・サックラー・ギャラリーでも展示され、開会数日で図録が完売したという。こうした一信再評価の流れを受けて増上寺でも展示場所を新たに作る機運が高まり、平成27年(2015年)4月宝物展示室が設けられ、五百羅漢図も常時10幅程度公開されている。翌28年(2016年)には、増上寺が所蔵する逸見家伝来の一信資料も港区指定文化財となり、研究が進められている。
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