第五共和政の成立
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「シャルル・ド・ゴール」の記事における「第五共和政の成立」の解説
ド・ゴールは正規の形式に従って議会から憲法案を準備する権力の承認を獲得し、その憲法案は人民投票に付託されることになった。ド・ゴールが示した憲法草案では、大統領の権限を強化して議会の力を抑制する新憲法を立案し、直ちにこれは国民投票に付された。1958年9月に行われた国民投票で、新憲法は投票者の80パーセント近くもの賛成により承認された。同年10月4日にフランス第五共和政憲法が公布・制定され、ド・ゴールは第18代大統領に就任した(フランス第五共和政の成立)。 すぐ憲法評議会が設置された。これをローヌ・プーランやエッソの重役であったレオン・ノエルが主宰した。彼はペタンの死後に政権を継承するよう遺言された7人のうちの1人で、さらにフランス国民連合の指導者の1人でもあった。1949年に連合の全国評議会副議長となり、1951年から1958年まで下院議員を務めていた。 1958年9月、フランス領西アフリカおよびフランス領赤道アフリカの広大なフランス領の植民地に対し、フランス共同体の元での大幅な自治を認める第五共和国憲法の承認を求めた。急進的独立派だったセク・トゥーレ率いるギニアはこれを否決し単独独立の道を歩んだものの、それ以外の植民地はすべてこれを承認した。1959年9月、ド・ゴールはアルジェリア人に民族自決を認めると発言した。これにコロンは激しく反発し、1960年1月にアルジェ市でバリゲードの1週間と呼ばれる反乱を起こした。1961年4月にアンドレ・ゼレール、ラウル・サラン、モーリス・シャール、エドモン・ジュオーの4人が反乱し、ド・ゴールが速やかに鎮圧した(将軍達の反乱)。右翼組織OASもテロによりアルジェリア領有の継続を主張したが、1962年にド・ゴールは独立を承認した。ド・ゴールはこの間に度々OASのテロと暗殺の標的となった(→詳細は「ジャッカルの日」項を参照)。1962年8月にパリ郊外のプティ=クラマールで、乗っていた自動車がOASにより機関銃で乱射されたが、ド・ゴールは九死に一生を得た。
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