第三海上護衛隊
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1944年(昭和19年)5月20日、東京湾-大阪湾(紀伊水道)航路の船団護衛を担当するために新編されたのが第三海上護衛隊である。伊勢湾部隊(指揮官平塚四郎大佐/伊勢防備隊司令:成生、特設掃海艇1隻、特駆7隻、駆特3隻、特敷高千穂丸、曳船1隻)、熊野灘部隊(指揮官大野周大佐/駒橋艦長:駒橋、特掃4隻、駆特3隻、哨戒監視艇1隻)、紀州部隊(指揮官鬼塚武二大佐/九〇三空串本派遣隊指揮官:特駆2隻、特掃5隻、駆特1隻、掃特2隻、海防艦50号、掃海艇27号、魚雷艇6隻)、航空部隊(九〇三空串本、浜島、大井、小松島各派遣隊)を指揮下兵力に置く。 東京湾~紀伊水道は本州太平洋側における海上輸送の大動脈であり、大戦序盤の頃から散発的に潜水艦被害が出ていた航路であった(昭和17年5月の水上機母艦瑞穂沈没など)。従来は横須賀鎮守府と大阪警備府が管轄していたが、相互連絡の不備などの不都合が続出した。これを解消するため、横須賀鎮守府・大阪警備府・舞鶴鎮守府部隊から兵力を抽出する形で設置された部隊であった(横須賀鎮守府司令長官の麾下に編入)。だが護衛艦艇が極端に少なく、串本海軍航空隊の編入も見送られたため航空支援も得られなかった。大規模に対潜機雷が敷設されていた三陸沖航路のような厳重な防御も困難であった。被害が続出する一方、満足な成果は得られなかった。同年11月29日には大和型戦艦改造空母信濃が紀伊半島潮岬沖で米潜水艦(アーチャーフィッシュ)に撃沈され、三海護の所属部隊は掃蕩をおこなったが成果はなかった。 1945年(昭和20年)2月下旬(16日、17日、25日)、米軍機動部隊の関東地方襲来により、本州太平洋沿岸を行動中の艦艇(監視艇隊を含む)は大きな被害を受けた。4月10日、第三海上護衛隊は本土決戦において伊勢湾の水際防御を担当する第四特攻戦隊(横須賀鎮守府部隊)に改編された。4月15日に新編された時の第四特攻戦隊兵力は、第13突撃隊、伊勢防備隊、測量艦駒橋、第26掃海隊、海防艦3隻、第112駆潜隊、駆潜艇3隻であった。
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