競馬黄金時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 00:46 UTC 版)
「アメリカ合衆国の競馬」の記事における「競馬黄金時代」の解説
1914年に始まった第一次世界大戦はアメリカの競馬には大きな影響を与えなかった。戦争が終わり、戦争特需の恩恵も受けて超大国へと成長したアメリカではスポーツも黄金期を迎える。 この時代に現れたスーパースターがマンノウォーである。21戦20勝という圧倒的な成績を残したマンノウォーは単に優れた競走馬としてではなく同時代のベーブ・ルースなどと共にアメリカを象徴する英雄として扱われたのである。 1929年に大恐慌が起きるとアメリカ経済は一転どんぞこに陥るが、競馬人気はむしろ上がった。希望の無い時代に競馬で一攫千金を狙う人々が競馬人気を支えていたのである。1932年にベイメドウズ競馬場・1936年にキーンランド競馬場が開場しているのはこの証左といえる。またこの頃になると一部を除いてパリミュチュエル方式の競馬は合法の物となっていた。大恐慌により財政難に陥っていた各州政府がこれら競馬場からの税収を必要としていたためである。またフランクリン・ルーズベルト大統領の主導により各州で競馬委員会が設立され、ジョッキークラブが全国的な支配力を失った。ただしまだジョッキークラブは各委員会に対する影響力は保持しており、その権限が完全になくなるのは第二次世界大戦の後である。もう一つ重要な変化として薬物違反を検挙するための唾液検査・馬の個体識別のための入れ墨制度が導入されたことが挙げられる。 大恐慌時代のスーパースターがシービスケットである。最初は最下級のクレーミング競走ですら勝てなかった弱小馬だったが、そこから次第に実力を身に着けて同世代の三冠馬ウォーアドミラルとのマッチレースで勝利するまでになったこの馬は暗い時代の希望の星となった。 第二次世界大戦が勃発したのち、日本からの攻撃を受ける可能性がある(と考えられていた)カリフォルニアの競馬場は少なからず影響を受け、1942年に競馬自体が停止。更に停止されたサンタアニタ競馬場とタンフォラン競馬場の敷地は日系人の強制収容が行われた際に一時的な抑留地として使われた。他の競馬場でもレーストラックの内側を野菜畑(戦時農園)に変えたり、また戦争協力金として競馬界全体で1650万ドルを拠出した。ただアメリカ全体の競馬としてはそこまで大きな影響は受けていなかった。大レースは相変わらず続けられていたし、競馬全体の総賞金額は膨らむ一方であった。戦争が長期化した1945年1月に遂に全米で競馬が停止した。しかしその年の5月には停止令が撤回されており、アメリカ競馬全体の賞金額は3千2百万ドルと記録を更新した。
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