秋田杉直物語
秋田杉直物語
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『秋田杉直物語』は馬場文耕の作品と言われ講談調に秋田騒動を描いた作品である。秋田騒動は宝暦7年(1757年)の事件であり、馬場文耕は 宝暦8年12月29日に処刑されているのでその間に書かれた本である。 『秋田杉直物語』には秋田騒動の首謀者とされる那河忠左衛門(那河采女)の妾である「お百」が登場する。これがお百の初出である。 那河忠左衛門の妾で実質は女房のお律は、元の名前をお百と言い、美貌の上に書や能も得意で、風流の嗜みがあってとりわけ香道の達人であった。京都九条通の貧しい家に生まれ、12歳の時に祇園の山村屋という色茶屋に売られ、14歳で白人勤めを始めた。その全盛ぶりは凄まじく、京都の童の唄にも歌われていた。ある晩の客は大坂の富豪、鴻池善右衛門だった。お百は星の運行を見て時刻を告げ正確だったことから、この利発さに感心した鴻池はお百を身請けする。お百は儒学・仏教・詩歌・連歌・俳諧など何を聞いても知っており、まるで鳥羽院の御宇の玉藻前のようであった。ところがお百は自分の美貌に酔って好色になり、上京してきた江戸の役者津打門三郎(津山友蔵)と密通する。鴻池は怒ったもののこれが人に知られては己の恥と二人を夫婦にしてやる。お百と門三郎は江戸に移住した。しかし、娼婦あがりのお百には子は生まれず、養子をもらったがまもなく門三郎は病死する。お百は門三郎の実兄の松本幸四郎(後の四代目市川團十郎)に心惹かれて自分から口説くが、幸四郎は貞実だったため義絶されてしまう。その後、お百は吉原の揚屋海老屋の妻になり、そこも不縁になると田町の色茶屋、尾張屋の後妻になる。ここで、那河に口説かれたお百はまた密通し、そのことが尾張屋に知れると、那河が引き取って妾にした。厳格な武士の行儀なぞ知るまいと人々は思ったが、お百は見事役目を果たし、佐竹家の奥方や、那河の勤務先である松平隠岐守の奥方に香を指南して気に入られた。さらにお百は奥方達や女中達を歌舞伎や遊楽を好むように仕向けた。那河が佐竹義明を女色にふけらせようと妾を勧めたときも、横から口添えし、お百の妹分ということで妾が抱えられた。那河の陰謀が失敗した後、お百は奉公人であると言い逃れ、養子と一緒に享保の打ちこわしの標的になった悪徳商人高間伝兵衛の甥高間磯右衛門に引き取られた。 お百が実在の人物である、あるいは何らかのモデルがいるという証拠はない。ただ『秋田杉直物語』は史実との矛盾点は多いものの、おおむね史実をなぞっている。私娼から身を興し、豪商の妾、役者の妻、色茶屋の女将、武家の妻女と多くの男性遍歴を重ねてはいるが、"毒婦"としての色彩は薄い。その後、『秋田杉直物語』を脚色し、実録ものの読本として出版された『増補秋田蕗』では、お百は下述のような稀代の悪女として描かれた。
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