福博電気軌道設立
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1897年(明治30年)、福岡市では九州3番目の電気供給事業者として博多電灯という電灯会社が開業し、電気の利用が始まった。また1900年(明治33年)には大分県にて九州初の電気鉄道事業者である豊州電気鉄道が開業した。 こうした中、1900年代になると福岡市でも電気鉄道(路面電車)事業起業への動きが始まった。計画の中心となったのは当時博多電灯取締役であった太田清蔵らで、彼らは1902年(明治35年)1月に会社設立願いを提出した。当初は電動力によらない馬車鉄道の予定であったが、後に電気鉄道へと変更されている。間もなく会社設立認可があったものの、資金に乏しく事業の経験もないことから会社設立に至らず、計画は立ち消えとなった。その後1906年(明治39年)になり、今度は福岡市会にて市営電車事業の構想が浮上し、12月に市営電車事業の出願が決議された。だが当時の福岡市は歳入に不安があり、なおかつ複数の新事業計画を抱えていたため資金不足であった。その一方で日露戦争後の企業ブームを背景に、市内に馬車鉄道や電気鉄道を敷設する民間の計画が相次いで出願されていたことから、電車事業の実現のため市会側では適当な条件の下に民間側へ譲歩し、諸計画を合同させて新会社と協定する方針を採った。 民間会社設立の発起人総代には市側の要請で福澤桃介と松永安左エ門が就任した。福澤は東京の実業家で、日露戦争前後の株式市場で財を成し、当時は広滝水力電気(佐賀県)をはじめ電気事業への投資を広げつつあった。松永は福澤の慶應義塾時代の後輩で、この時期には関西にて北海道や九州の石炭を扱う石炭商「福松商会」を開いていた。福澤・松永は交詢社の関係者らを集め会社設立願いを当局に提出し、さらに市との間に報償契約を結んで市の出願を取り下げさせた。日露戦争後の不況の影響で会社設立準備は一時遅滞したが、1908年(明治41年)12月に発起人22名に対して軌道敷設の特許が下り、翌1909年(明治42年)になって準備が整うに至る。そして同年8月31日、「福博電気軌道株式会社」の創立総会が開かれ会社が成立した。 設立をみた福博電気軌道の資本金は60万円。社長には福澤桃介、専務取締役には松永安左エ門がそれぞれ就任し、その他の役員には太田清蔵や博多電灯社長山口恒太郎ら福岡の人物と、愛知県・大阪府の人物が名を列ねた。このうち会社を主導するのは松永で、以後1920年代に入るまで福岡を拠点とすることとなった。
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