九州電灯鉄道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/05 23:19 UTC 版)
九州電灯鉄道株式会社(旧字体:九州電燈鐵道󠄁株式會社󠄁、きゅうしゅうでんとうてつどうかぶしきがいしゃ)は、明治末期から大正にかけて存在した日本の電力会社・鉄道事業者である。福岡市に本社を置き、北部九州を中心に事業を展開した。略称は「九鉄」。
- ^ a b c 「商業登記」『官報』第7721号、1909年3月25日付。NDLJP:2951071/16
- ^ a b c 「商業登記」『官報』第3032号、1922年9月8日付。NDLJP:2955150/20
- ^ a b 「九州電灯鉄道株式会社第51回営業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)
- ^ 『九州地方電気事業史』19・22・36頁他
- ^ a b c d e f g h i j 『九州地方電気事業史』38-40頁
- ^ a b c d e f g h i j 『九電鉄二十六年史』1-7頁
- ^ a b c d e f g h i j k l 『東邦電力史』46-49頁
- ^ 『北陸地方電気事業百年史』10頁
- ^ 『電気事業要覧』明治41年32-35頁。NDLJP:805421/37
- ^ a b 『九電鉄二十六年史』195-198頁
- ^ 『九州地方電気事業史』34頁・巻末年表
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『九州地方電気事業史』40-42頁
- ^ a b c d e f 『九電鉄二十六年史』149-152頁
- ^ a b c d e f g h i j k 『九州地方電気事業史』95-97頁
- ^ a b 『九州地方電気事業史』78-80頁
- ^ a b c d e f g h i j 『九州地方電気事業史』97-98頁
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 『東邦電力史』49-53頁
- ^ 「商業登記」『官報』第7724号附録、1909年3月29日付。NDLJP:2951074/20
- ^ a b c d 『九州地方電気事業史』99-102頁
- ^ a b c d e f g h i j k 『九州地方電気事業史』102-103頁
- ^ a b c d e 『九電鉄二十六年史』36-41頁
- ^ 「公示催告」『官報』第8414号、1911年7月10日付。NDLJP:2951771/12
- ^ a b c 『東邦電力史』54-59頁
- ^ a b 「商業登記」『官報』第8529号、1911年11月24日付。NDLJP:2951886/15
- ^ a b c d e 『九電鉄二十六年史』153-157頁
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『九州地方電気事業史』103-105頁
- ^ a b c d e f g h 『九電鉄二十六年史』50-56頁
- ^ a b c 「公示催告」『官報』第8661号、1912年5月6日付。NDLJP:2952018/12
- ^ a b c 『東邦電力史』62-63頁
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 『東邦電力史』63-66頁
- ^ 「九鉄関係会社合同成立」『福岡日日新聞』1913年9月17日付(神戸大学経済経営研究所「新聞記事文庫」収録)
- ^ a b c d e f g h i j k l m 『九電鉄二十六年史』57-63頁
- ^ 「商業登記」『官報』第8513号附録、1911年11月4日付。NDLJP:2951870/12
- ^ 「商業登記」『官報』第8629号附録、1912年3月28日付。NDLJP:2951986/25
- ^ a b c d 『電気事業要覧』大正元年80-87頁。NDLJP:974999/66
- ^ 「商業登記」『官報』第8629号、1912年3月28日付。NDLJP:2951986/19
- ^ 『佐賀銀行百年史』75-78頁
- ^ 「商業登記」『官報』第73号附録、1912年10月28日付。NDLJP:2952170/17
- ^ 「商業登記」『官報』第8361号、1911年5月9日付。NDLJP:2951718/19
- ^ 『新編大村市史』第四巻244-245頁
- ^ 「商業登記」『官報』第8499号附録、1911年10月18日付。NDLJP:2951856/18
- ^ a b 「商業登記」『官報』第228号、1913年5月6日付。NDLJP:2952326/15
- ^ a b 『電気事業要覧』第8回108-109頁、NDLJP:975001/83
- ^ 「商業登記」『官報』第8674号附録、1912年5月21日付。NDLJP:2952031/17
- ^ 「商業登記」『官報』第547号、1914年5月29日付。NDLJP:2952650/15
- ^ a b c 『九電鉄二十六年史』63-69頁
- ^ a b 「九州電灯鉄道株式会社第40回営業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)
- ^ a b c 『九州地方電気事業史』133-136頁
- ^ a b 『西部瓦斯株式会社史』32-36頁
- ^ 『九州地方電気事業史』36頁
- ^ a b c d 『九州地方電気事業史』179-182頁
- ^ a b 『中国地方電気事業史』60-62頁
- ^ 「九州電灯鉄道株式会社第40回営業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)
- ^ 「九州電灯鉄道株式会社第48回営業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)
- ^ 「九州電灯鉄道株式会社第49回営業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)
- ^ 「商業登記 株式会社設立」『官報』第8544号、1911年12月12日付。NDLJP:2951901/15
- ^ a b 『九電鉄二十六年史』69-71頁
- ^ a b c d e f 『中国地方電気事業史』243-245頁
- ^ 「商業登記」『官報』第131号附録、1913年1月9日付。NDLJP:2952229/20
- ^ a b 『九州地方電気事業史』106頁
- ^ a b c d e f g h 『九州地方電気事業史』110-112頁
- ^ 『九州地方電気事業史』85-88頁
- ^ a b c d e f g h i j k 『九州地方電気事業史』170-173頁
- ^ a b 『東邦電力史』69-72頁
- ^ a b c d e f g h i j 『九州地方電気事業史』186-189頁
- ^ a b c 『東邦電力史』86-89頁
- ^ a b 『東邦電力史』82-86頁
- ^ a b c 『私の履歴書』第21集松永安左エ門第7節
- ^ a b c d e f g 『東邦電力史』93-95頁
- ^ 「関西電気株式会社大正11年下半期営業報告書」(J-DAC「企業史料統合データベース」収録)
- ^ 『九電鉄二十六年史』第7表(九州電灯鉄道株式会社毎期成績一覧表)
- ^ a b c d e f g h i j 『九電鉄二十六年史』7-16頁
- ^ 『九州地方電気事業史』98-99頁
- ^ a b c 『西部瓦斯株式会社史』166-167頁
- ^ 『西部瓦斯株式会社史』56-68頁
- ^ a b 『九電鉄二十六年史』16-19頁
- ^ 『九州地方電気事業史』52-53頁
- ^ a b 『九州地方電気事業史』106-107頁
- ^ a b c d e f 『九電鉄二十六年史』89-95頁
- ^ a b c d e f g 『九州地方電気事業史』183-186頁
- ^ 『九電鉄二十六年史』第4表(電灯電力供給表)および第7表(九州電灯鉄道株式会社毎期成績一覧表)
- ^ 『電気事業要覧』明治44年68・96頁、NDLJP:974998/77
- ^ a b c 『九電鉄二十六年史』第6表「供給区域別電灯電力供給数及架空電線路状況」
- ^ 『東邦電力史』105・109頁
- ^ 『九州地方電気事業史』275-276頁
- ^ 『東邦電力史』592・594頁
- ^ a b 『電気事業要覧』第8回238-239頁、NDLJP:975001/149
- ^ a b c d e f g h i j 『東邦電力史』75-77頁
- ^ 『電気年鑑』昭和14年20頁、NDLJP:1115068/31
- ^ 『電気事業要覧』明治44年66頁、NDLJP:974998/62
- ^ a b 『九州地方電気事業史』772頁(発電所一覧)
- ^ 『電気事業要覧』明治44年150-151頁、NDLJP:974998/105
- ^ a b 『九電鉄二十六年史』51-52頁
- ^ a b c 『九電鉄二十六年史』135-136頁
- ^ a b c d e f 『九州地方電気事業史』182-183頁
- ^ a b 『電気事業要覧』第10回160-161頁、NDLJP:975003/108
- ^ a b 『電気事業要覧』第10回236-237頁、NDLJP:975003/146
- ^ a b c d 『九電鉄二十六年史』136-138頁
- ^ 『九州地方電気事業史』125-128頁
- ^ a b 『電気事業要覧』第14回126-127頁、NDLJP:975007/90
- ^ 『九州地方電気事業史』781頁(発電所一覧)
- ^ 『電気事業要覧』第13回186-189頁、NDLJP:975006/123
- ^ 『九州地方電気事業史』780・782頁(発電所一覧)
- ^ 『電気事業要覧』第14回116-117頁、NDLJP:975007/85
- ^ 『中国地方電気事業史』249・891頁
- ^ 『九電鉄二十六年史』28・33-34頁
- ^ 『九電鉄二十六年史』28-29頁
- ^ 『九電鉄二十六年史』39頁
- ^ a b c d 『九電鉄二十六年史』95-98頁
- ^ 『九電鉄二十六年史』34-35頁
- ^ 『九電鉄二十六年史』139-140頁
- ^ a b 『日本鉄道旅行地図帳』12号54頁
- ^ 『九電鉄二十六年史』209-211頁
- ^ 『九電鉄二十六年史』第3表(電気軌道及唐津軌道毎期営業比較表)および第7表(九州電灯鉄道株式会社毎期成績一覧表)
- ^ 『西日本鉄道百年史』59頁
- ^ 『西日本鉄道百年史』63-64頁
- ^ 『日本鉄道旅行地図帳』12号36-37頁
- ^ 『九電鉄二十六年史』67頁
- ^ 『瓦斯事業要覧』大正10年度2-3頁、NDLJP:946302/5
- ^ a b 『西部瓦斯株式会社史』150-158頁
- ^ 『西部瓦斯株式会社史』28-29・32-34頁
- ^ 『九電鉄二十六年史』第4表(瓦斯製造及供給状態一覧表)および第7表(九州電灯鉄道株式会社毎期成績一覧表)
- ^ a b 『九電鉄二十六年史』98-99頁
- ^ a b 『九電鉄二十六年史』141-142頁
- ^ 『西部瓦斯株式会社史』200頁
- ^ 『西部瓦斯株式会社史』239頁
- ^ 『西部瓦斯株式会社史』243-244頁
- ^ a b c d 『九電鉄二十六年史』142-143頁
- ^ a b 『九電鉄二十六年史』103頁
- ^ 『電気年鑑』大正11年313頁、NDLJP:948318/210
- ^ 『東邦電力史』96-97頁
- ^ 「西部電機株式会社第83期有価証券報告書」(2016年)による
- ^ 『九電鉄二十六年史』32頁
- ^ 『九電鉄二十六年史』35頁
- ^ a b c 『九電鉄二十六年史』99-101頁
- ^ 「商業登記」『官報』第5771号、1902年9月27日付。NDLJP:2949074/8
- ^ 「商業登記」『官報』第7290号、1907年10月15日付。NDLJP:2950636/18
- ^ 「商業登記」『官報』第7666号附録、1909年1月18日付。NDLJP:2951015/17
- ^ 「商業登記」『官報』第7817号附録、1909年7月16日付。NDLJP:2951167/12
- ^ 「商業登記」『官報』第8415号附録、1911年7月11日付。NDLJP:2951772/25
- ^ 「商業登記」『官報』第410号、1913年12月9日付。NDLJP:2952510/14
- ^ 「商業登記」『官報』第1175号附録、1916年7月1日付。NDLJP:2953285/9
- ^ 「商業登記」『官報』第1141号附録、1916年5月23日付。NDLJP:2952510/14
- ^ 「商業登記」『官報』第2370号附録、1920年6月26日付。NDLJP:2954483/27
- ^ 『日本全国諸会社役員録』第30回下編735頁、NDLJP:968834/874
- ^ a b c 『九電鉄二十六年史』143-147頁
- ^ 『九州電力10年史』247-248頁
- ^ a b c d e f g h 『西日本鉄道百年史』39-43頁
九州電灯鉄道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 16:20 UTC 版)
1906年11月4日、佐賀県に広滝水力電気株式会社という電力会社が設立された。筑後川水系城原川での水力発電を目指し、佐賀県出身の実業家牟田万次郎(専務就任)を中心に佐賀財界の中野致明(社長就任)・伊丹弥太郎らが起業した会社である。発電所が完成し開業に至るのは2年後の1908年10月のことであるが、会社設立直後に同社では福岡市にある博多電灯との合併問題が発生した。この博多電灯は開業時から火力発電で営業する会社であるが、水力発電を併用できれば有利との判断から当時の社長太田清蔵が広滝水力電気との合併を推進する。ところが株主から反対論が噴出して合併案は株主総会での承認に至らず、太田も社長を辞任せざるを得なかった。 太田清蔵は広滝水力電気の設立に際して大株主となっていたが、博多電灯との合併失敗によって持て余したため上京し持株全部を桃介に譲り渡した。桃介によると太田から買い取った広滝水力電気株式は総株数6000株(資本金30万円)のうち1500株で、当時は12円50銭払込のため気軽に引き受けたという。その後払込金の追加徴収の段になって不況期であるとして払込を渋るが、佐賀まで出張し会社の状況を確認して出資を継続すると決めた。広滝水力電気では桃介自身が役員になることはなかったものの、1908年2月に松永安左エ門が監査役に加わっている。 同じ九州の福岡市では、先に松永らと出願していた市内での路面電車敷設の特許が1908年12月に下りた。しかしいざ設立という段階になると桃介は不況ということもあり株式の引き受けを渋るが、松永に押され2000株の引き受けを決めたという。かくして1909年(明治42年)8月31日、資本金60万円(総株数1万2000株)にて福博電気軌道株式会社が発足。桃介が取締役社長、松永が専務取締役となり直ちに着工、翌1910年(明治43年)3月に開業させた。なお福博電気軌道設立にあたり、三菱財閥の岩崎久弥が後援となって2000株を引き受けていた。桃介は自著『桃介は斯くの如し』(1913年)の中で、相場師や虚業家などと言われて世間から排斥されている最中であったにも関らず岩崎久弥(同書中では「東京の或る富豪」となっている)に助力して貰えたことを今でも感謝していると述べている。 1910年9月5日、佐賀では川上川(嘉瀬川上流部)の開発を目的として広滝水力電気経営陣と桃介らのグループの共同出資により新会社・九州電気株式会社が設立された。同社はまもなく広滝水力電気を吸収し、資本金270万円の電力会社となっている。九州電気では桃介も取締役に名を連ねる。主要経営陣には佐賀財界から社長に中野致明、専務に伊丹弥太郎が就いたが、一方で松永が常務、その友人田中徳次郎が取締役兼支配人に入っており、桃介・松永らの影響力も大きいものであった。翌1911年、福博電気軌道が博多電灯からの受電を契約したことを契機に松永の主導によって人的関係のある九州電気・福博電気軌道に博多電灯を加えた3社の合併案が取りまとめられる。この段階では九州電気は社内で意見がまとまらず合併から離脱したが、博多電灯による福博電気軌道の合併が11月2日付で実施され、博多電灯軌道が成立した。 博多電灯軌道の社長は博多電灯社長の山口恒太郎が続投し、福博電気軌道からは松永が専務に加わったものの、桃介は相談役に退いた。博多電灯軌道発足後、九州電気の社内が合併参加の方向でまとまるが、今度は博多電灯軌道側で桃介・松永ら合併推進派と堀三太郎ら合併反対派の対立が始まり株式買占めを伴う争いに発展するが、最終的に合併推進派が主導権を握って九州電気との合併を決定。1912年6月29日、博多電灯軌道が九州電気を合併して資本金485万円の九州電灯鉄道株式会社が発足をみた。合併に伴う新体制では桃介が社長候補ではあったが役員就任を拒否し、佐賀側から伊丹弥太郎が新社長に就任する。経営実務を担う常務取締役は松永・田中・山口の3名で、桃介は堀三太郎とともに相談役に収まった。 このように九州の事業は最終的に九州電灯鉄道へと発展したが、この事業の成功は大概松永安左エ門によるもので、桃介自身は「我れ関せず焉」で、時々顔を出しに九州へ行った程度であると述べている。なお九州電灯鉄道は発足以後も周辺事業者を次々と合併していくが、そのうち1913年11月に合併された唐津軌道と佐世保電気の2社にて桃介は取締役(1911年10月就任)と社長(1912年10月就任)をそれぞれ務めている。
※この「九州電灯鉄道」の解説は、「福澤桃介」の解説の一部です。
「九州電灯鉄道」を含む「福澤桃介」の記事については、「福澤桃介」の概要を参照ください。
- 九州電灯鉄道のページへのリンク