神峰煙道の建設
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排煙中の亜硫酸ガス濃度を低下させるためには排煙を空気で薄めて排出すれば良いと考えた日立鉱山当局者は、1911年(明治44年)5月に神峰煙道という新たな排煙施設を完成させた。これは大雄院製錬所から神峰山の尾根沿いに中腹まで延びる、総延長約1630メートルに及ぶ、高さ約7尺(約2.1メートル)、幅12尺(約3.6メートル)の鉄筋コンクリート製の煙道であった。神峰煙道は煙道中に200馬力の送風機を設けて排煙を送り込み、煙道に開けられた十数か所の穴から排出する仕組みであった。排煙が長大な煙道を流れる中で分散して排出されることによって、排煙中の亜硫酸ガスを中心とした有害物質の濃度を下げようと考えたのであった。神峰煙道はその形状と煙道の十数か所から煙を排出する様子が、巨大なムカデが山を這い上がりながら煙の手足をうごめかしている様子に例えられ、百足煙道との別称が付けられた。 神峰煙道は建設に至る経緯などについての記録が残っていない。そのため建設期間や建設費用については不明である。しかしこのような長大な煙道の建設には多額の費用と時間を要したものであると推察されている。 ところが排煙が空気よりも重いためか、分散して排出された排煙は風によって峠を越えた後、山の斜面に沿って流れ、谷間で再び集められてしまった上で人里まで降りてきたのである。特に入四間では神峰煙道は八角煙突よりも距離が近いこともあって、煙害が激甚を極める結果となった。当時、庶務課長として煙害対策など鉱害問題に対応していた角弥太郎によれば、神峰煙道は遠距離の煙害には相応の効果があったと見られるが、近隣の煙害についてはあまり効果が見られなかったとしており、結局神峰煙道は煙害防止にはほとんど役立たなかった。そのような中で神峰煙道はむじな燻しという有り難くないニックネームを付けられてしまった。 結局、神峰煙道は1915年(大正4年)3月1日の大煙突の使用開始後に煙突としての使用を中止した。その後、第一次世界大戦に伴う好況によって鉄の価格が暴騰した1917年(大正6年)から翌1918年(大正7年)にかけて大部分が取り壊され、鉄筋は回収された。但し敷地内の部分については、第3煙突や大煙突の煙路として使用されていたため、撤去されずに残された。残存部分のうち大煙突より先は、常磐自動車道の建設に際して撤去された。大煙突に至る密閉煙路部分は、現在も使用されている。
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