相撲部屋の運営
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/28 06:05 UTC 版)
名称 該当部屋に所属する年寄の中の責任者(師匠)の年寄名跡が部屋名に冠せられる。そのため、同じ部屋の部屋名のみ変更になる例、逆に、組織的つながりはなくても部屋名が同一になる例がある。 部屋の日常 相撲部屋の構成員は、部屋を代表する年寄(師匠)を中心に寝食を共にしており、幕下以下の力士(取的)は、大部屋で共同生活をする。関取になると個室が与えられるが、結婚するまでは部屋に住むことが基本のルールである。ただし、関取を多く擁している部屋では個室が足りなくなり、やむを得ず関取にマンション暮らしを許す場合がある(春日野部屋や九重部屋など)。 各部屋は、それぞれ自前の稽古場を持つ。以前は、稽古場を構えず、一門の部屋への出稽古を常態としていた部屋もあったが、1965年1月場所からの部屋別総当たり制を機に、稽古土俵を持たなければ部屋の新設・存続は認められなくなった。部屋の創立から施設の完成までに時間がかかる場合は、仮施設をOBから受けることが原則である。 どれだけ所属力士が多くても、ほとんどの部屋では稽古土俵は1つである。「他人の相撲を見るのも稽古のうち」という意味合いと、「他人を押しのけて土俵に上がるようでなくてはならない(それくらいの稽古に対する積極性と気概が必要だ)」という考え方による。ただし、稽古の効率化を図って2つの土俵を備える例も少数ながら存在する(前田山の高砂部屋、照國の伊勢ヶ濱部屋、琴櫻の佐度ヶ嶽部屋、稀勢の里の二所ノ関部屋)。 協会からの独立性 相撲部屋は一種の"イエ"であり、日本相撲協会からも基本的に独立して運営されている。協会からは所属力士数等に応じて補助金が交付されるが、これだけでは部屋の運営を賄うことはできず、師匠自身にも、自前で必要経費を調達する資金力が求められる。不動産としての部屋の施設も、師匠(当代、あるいは先代以前およびその遺族)、後援者などが資金を出して構える(あるいは、賃貸物件を構える)必要がある。また、部屋の立地自治体や近隣住民との繋がりも重視し、町興しの一環として相撲部屋が運営されている面もある。 同部屋の力士は疑似的な「家族」であることから、本割では対戦しない(部屋別総当たり制)。そして、入門時に所属した部屋から、他部屋への移籍は原則認められない。 部屋の継承、増減 相撲部屋も、通常の"イエ"のように、師匠から弟子へと、年寄名跡に付随する形で継承される。更に、古くからの慣例として、師匠の娘を有力な弟子と結婚させて養子縁組を行い、婿入りの形で民法上も親子関係を築いたうえで師匠の座を継承する事例が今もある。そのため、「部屋持ち親方は娘が生まれると赤飯炊いて喜ぶ」「相撲部屋に男児はいらぬ」と俗に言われる。 そして、一つの部屋から部屋の創設の資格および意志を持った力士が複数名いた場合は、分家独立をして新しい部屋を構える。逆に、後継者に恵まれなかった部屋や、年寄・力士がいなくなった部屋は閉鎖され、"イエ"の系統は途絶える(残っていた部屋の構成員は、他部屋に移籍する。 部屋数は昭和まではおおむね30前後で安定していたが、平成になると若乃花・貴乃花兄弟の活躍によって相撲人気が高まり総力士数が増え、それに合わせて部屋の新設が相次ぎ、2004年には史上最高の55部屋にまで到達した。しかし、新しい部屋の乱立によって所属力士が数人しかいない小規模な部屋が多くなり、部屋の運営に支障をきたしたり、歴史の浅い部屋が大相撲の伝統をうまく継承できずに力士が問題を起こすケースが出てきた。これを受けて、これまで明文化されていなかった部屋創設の要件として、師匠の現役時の成績を設けることによって(後述)、分家独立を抑制させた。平成後期以降は入門者の減少と合わせて、部屋数は減少しつつある。 一門との関係 部屋の分離独立が進むと、同一の部屋から分離独立した部屋の系統が発生する。これらの系統に基づく部屋の集まりを「一門」と呼び、現在でも冠婚葬祭や合同稽古などを実施、協会の役員選挙も慣例的に一門別に頭数が割り振られている。かつては無所属の部屋も許されていたが、2018年の貴乃花一門の解散を機に、いずれかの一門への所属が義務付けられるようになった(一門制度)。
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