発見から破壊までの経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/05/23 04:04 UTC 版)
1970年2月、大阪市内の事業者より大阪府建築部開発指導課に対し、約260,000平方メートルに及ぶ大規模な宅地造成計画が申請された。申請地内には周知の埋蔵文化財包蔵地(遺跡)は存在しなかったが、石川西岸には多数の遺跡が確認されているため、大阪府教育委員会文化財保護課より依頼を受けた北野耕平と中村浩が分布調査を実施した。分布調査によって、9か所で古墳の可能性があるもの、1カ所で弥生時代の集落跡の可能性があるものを確認した。 同年6月、大阪府教育委員会は事業者と富田林市教育委員会に対して、分布調査結果を通知し、試掘調査と保存措置の実施を指導した。一方で、開発指導課は事業者からの申請に対して、遺跡があると確定したわけではないとして、埋蔵文化財が出た場合は大阪府と富田林市の指示に従うことを条件に、造成の許可を下した。 同年9月、文化財保護課は試掘調査を実施し、古墳と思わしき9カ所のうち2カ所について明らかに埋葬施設が存在すること、うち1カ所は府下では珍しい前方後方墳の可能性が高いことが確認された。試掘調査結果に対して、事業者は古墳の存在する場所が雨水調整池の設置予定地であったことに加え、古墳の現状保存を行う場合に砂防地を設ける必要があり8億円の損害が生じるとして、記録保存のための発掘調査を要望した。同月、「富田林の文化財を守る会」で試掘調査の担当者が調査結果を発表した。 同年11月、古墳の発見について新聞報道がなされ、記録保存のための発掘調査を前提とした市教委の対応が批判された。また、府教委の試掘調査の実施が遅れたこと、開発指導課が分布調査結果を知りながら造成許可を出したこと、さらに府教委が直近まで造成許可を知らなかったことに対しても批判された。 市教委の対応は富田林の文化財を守る会との協議のうえ決定されたものであったことから、河南高校考古学クラブは富田林高校考古学クラブと共同で、駅前などで署名活動を行い、複数回にわたって富田林の文化財を守る会へ保存運動を展開することを求めた。また、両校の考古学クラブによって「平古墳を守る会」が結成された。富田林の文化財を守る会に保存運動を拒否されると、同年12月に事業者へ署名を携え陳情を行ったが、話し合いは物別れに終わった。 1971年1月、府教委によって実測調査が実施され、1号墳が前方後方墳であることが追認された。その一方で、事業者側は金利がかさむことや水路などは渇水期に工事を着工する必要があることを理由として、同年2月に起工式を行い古墳を除く開発予定地の工事着工に踏み切った。府教委は調査結果をもとに文化庁と数か月に及ぶ協議を行ったが、文化庁は史跡指定と用地買収という判断には至らず、記録保存のための発掘調査という結論を下し、府教委は同年9月末より発掘調査を実施することとなった。また、この決定を受け古墳の破壊が免れない事態となったことにより、高校生らによる「平古墳を守る会」は保存運動から手をひくことを決めた。
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