生きたシンボル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 15:15 UTC 版)
一頭のアメリカグマ(3ヶ月の小熊)が、スモーキー・ベアの生きたシンボルとされていた。この小熊は、1950年春のキャピタン・ギャップ森林火災(英語版)(ニューメキシコ州キャピタン山地(英語版)のリンカーン国立森林公園を17,000エーカー (69 km2)にわたって焼いた)に巻き込まれながらも、木に登ることで炎を逃れたが、前足と後ろ足に火傷を負っていた。小熊は焼けあとから狩猟監視官(英語版)によって救出されたとする説があるが、ニューメキシコ州林野局によれば、実際に救出にあたったのはテキサス州フォート・ブリス(英語版)から消火活動を助けにきた陸軍兵士のグループだった。兵士達は発見した小熊を軍の野営地に連れて帰った。 この小熊は当初、「ホットフット・テディ」と呼ばれていたが、後にスモーキー・ベアにちなんで「スモーキー」と名付けられた。山火事の後でこの小熊を最初に養育した人物に関しては、いくつかの互いに矛盾する説が存在する。『ニューヨークタイムズ』は当時ニューメキシコ州漁業狩猟局(英語版)の副局長だったホーマー・C・ピッケンズの追悼記事のなかで、ピッケンズが山火事の後、小熊をしばらく自分の家にとどめ、元気になるまで世話しようと試みたと述べた。『ライフ』の記事を含む別の記録によれば、ニューメキシコ州漁業狩猟局のレンジャーだったレイ・ベルが小熊をサンタフェへ連れて行き、妻のルース、子供のダンとジュディとともに世話をしていたとされる。焼けあとから救い出された小熊の話は全米の報道機関で取り上げられ、スモーキーは有名人になった。まもなくスモーキーはパイパー カブでワシントンD.C.のアメリカ国立動物園(英語版)に空輸されたが、その途中で飛行機の給油のためセントルイス動物園で一泊した際にはスモーキーのための部屋が特別に用意された。国立動物園に到着した際には、ボーイスカウト・ガールスカウトのメンバー、写真家、報道機関などを含む数百人の観衆がスモーキーを出迎えた。 スモーキー・ベアは国立動物園で26年間にわたって過ごし、その間に何百万人もの来訪者を迎えた。スモーキーが受け取った手紙は膨大な数(最大で一週間に1万3000通)にのぼり、1964年には郵便公社がスモーキーに専用のZIPコード(20252)を与えたほどだった。スモーキーは食事として与えられるオキスズキとマスのほかにも、ピーナッツバターのサンドイッチを好んで食べた。 スモーキーは1976年12月9日に死亡したが、その亡骸は政府によってニューメキシコ州キャピタンへと返され、現在スモーキーベア歴史公園(英語版)と呼ばれる場所に埋葬された。墓石には「ここは最初の生きたスモーキー・ベアが眠る場所……山火事防止と野生動物保護の生きたシンボル」という文が記されている。『ワシントン・ポスト』は「ベア」と題する冗談めいた追悼文をスモーキーに送り、このクマがニューメキシコ州出身で、後にワシントンD.C.に移住し、長年にわたりそこに住みつつ公務に就いていたと述べた。追悼文はスモーキーの家族(妻のゴールディー・ベア、「養子」のリトル・スモーキーなど)にも言及し、スモーキーと妻ゴールディーは同じ「ベア」という姓をもっていたものの、両者に血縁関係はなかったと注記した。1976年11月11日、『ウォール・ストリート・ジャーナル』は一面にスモーキーへの追悼文を掲載した。当時あまりに多くの新聞がスモーキーの死に関する記事や追悼文を掲載したため、それらをまとめた4冊ものスクラップブックが国立動物園の書庫に収蔵されている。(シリーズ12、ボックス66 - 67に収録)
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