独立回復期
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その後、エストニアはソ連から独立回復を達成し、1992年6月に採択した新憲法(英語版)の第6条において、エストニア語はその国家語と規定された。一方、ロシア語の地位については明記されなかった。法文においては「すべての市民が国家機関あるいは地方自治機関においてエストニア語を使用し、エストニア語で回答を得る権利を持つ」とされたが、「例外的に、その地域の住民の多数が非エストニア語を使用している場合、地方自治体は地域内に流通する言語として、地域の永住民の多数派言語を使用できる」とされた。個人および集団の言語権は基本的人権として認められ、言語を理由とした差別も禁じられた。 しかし、同時期にエストニア政府は、1940年6月以降に移住してきたロシア人に対しては自動的な国籍付与を認めないと決定した。さらに、復帰された1938年国籍法によってエストニア語能力が帰化要件とされたため、エストニア国内に居住する大多数のロシア人は無国籍(ロシア語版)状態に追いやられることとなった。加えて、1993年6月に可決の「外国人法」によって実質的なロシア人の国外退去までが定められるに至って、全欧安全保障協力会議 (CSCE) やヘルシンキ・ウォッチ(英語版)、欧州評議会などの国際調査団はエストニアに反露政策の見直しを要求した。結果、「外国人法」の修正とともに、帰化要件についても「1500語程度の日常会話能力」へと緩和がなされた。11月には、1925年の法を基にした「少数民族文化自治法」が採択され、ロシア人を含めた3000人以上の少数民族に対しても文化的自治が保障された。
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独立回復期
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「全国歌謡祭 (エストニア)」の記事における「独立回復期」の解説
やがてミハイル・ゴルバチョフがソ連最高指導者に就任し、ペレストロイカが開始されると、エストニア人はソ連構成共和国の中でいち早く独立回復へ向けた運動を開始した。1988年6月には守旧派のエストニア共産党(ロシア語版)第一書記カルル・ヴァイノ(ロシア語版)が民衆の抗議によって辞任に追い込まれ、これに歓喜した15万人の人々が歌謡祭グラウンドに集結し、禁止されていたはずの青黒白の三色旗を打ち振るった。9月には、本来の歌謡祭とは別にエストニア人民戦線(ロシア語版)が主催した「エストニアの歌」(et) が開催され、30万人を超す参加者は合唱によって民族の団結と体制への抗議を表現した。以降、歌謡祭を原動力としたエストニア民族運動は、「歌う革命」としてエストニアを独立回復へと衝き動かしてゆくこととなる。 1990年の第21回歌謡祭は、もはやモスクワによる検閲からも解放され、エストニア人の手による自由な選曲が行われた。愛国歌や宗教音楽が演奏され、国外に亡命していたエストニア人の合唱団・舞踊団も各国から参加し、82歳になったエルネサクスによる「我が祖国 我が愛」の指揮も行われた。この祭典の観客数は、30万人を超える過去最高のものであったとも言われる。
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