滞仏生活とピカソの衝撃とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 滞仏生活とピカソの衝撃の意味・解説 

滞仏生活とピカソの衝撃

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 02:10 UTC 版)

岡本太郎」の記事における「滞仏生活とピカソの衝撃」の解説

一平朝日新聞特派員として、ロンドン海軍軍縮会議取材に行くことになり、岡本東京美術学校休学後、親子三人かの子愛人青年二人加えた一行渡欧一行乗せた箱根丸1929年昭和4年神戸港出港1930年昭和5年1月パリ到着以後10年間をここで過ごすことになる。 フランス語勉強するため、パリ郊外リセ日本旧制中学に相当)の寄宿舎で生活。語学習得傍ら1932年頃、パリ大学ソルボンヌ大学)においてヴィクトール・バッシュ教授美学学んでいる。「何のために絵を描くのか」という疑問対す答えを得るため、1938年頃からマルセル・モースの下で絵とは関係のない民族学学んだといわれている。 1932年昭和7年)、両親先に帰国することになり、パリで見送る。かの子1939年昭和14年)に岡本帰国待たず逝去したため、これが今生の別れとなった同年芸術への迷い続いていたある日、たまたま立ち寄ったポール=ローザンベール画廊パブロ・ピカソ作品水差し果物鉢》を見て強い衝撃を受ける。そして「ピカソ超える」ことを目標絵画制作打ち込むうになる岡本は、この時の感動著書青春ピカソ』(1953年)において「私は抽象画から絵の道を求めた。(中略この様式こそ伝統民族国境障壁突破できる真に世界的な二十世紀芸術様式だったのだ」と述べている。 1932年ジャン・アルプらの勧誘を受け、美術団体アプストラクシオン・クレアシオン協会メンバーとなる。そのメンバーにはピート・モンドリアンワシリー・カンディンスキー錚々たる大家がいた。岡本はその協会年鑑で、「『形』でない形、『色』でない色をうち出すべきだ」とのメッセージ投げかけていた。 親交のあった戦場カメラマンロバート・キャパ公私にわたる相方であった報道写真家ゲルタ・ポホリレに岡本の名前が1936年よりビジネスネームゲルダ・タローとして引用された。しかしゲルダ活動期間はとても短く1937年スペイン内戦ブルネテの戦い取材向かったが、戦場混乱発生した自動車事故受けた傷がもとで死去した1938年シュールリアリズム創始者アンドレ・ブルトン制作の「シュール・レアリスム簡易辞典」に「傷ましき腕」が掲載された。この絵画契機に、岡本美術団体アプストラクシオン・クレアシオン協会脱退しパリ大学ソルボンヌ校の哲学科聴講生として通うようになる。さらに民族学科に移り、そこで文化人類学者マルセル・モース教授出会い彼の講義から多大な影響を受ける。やがて岡本思想家ジョルジュ・バタイユとも出会い盟友として親交深めた

※この「滞仏生活とピカソの衝撃」の解説は、「岡本太郎」の解説の一部です。
「滞仏生活とピカソの衝撃」を含む「岡本太郎」の記事については、「岡本太郎」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「滞仏生活とピカソの衝撃」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「滞仏生活とピカソの衝撃」の関連用語

滞仏生活とピカソの衝撃のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



滞仏生活とピカソの衝撃のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの岡本太郎 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS