洞窟と定泉寺の沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 01:23 UTC 版)
定泉寺は1532年(天文元年)に鶴岡二十五坊相承院の僧快元法印の門弟隆継阿闍梨により建立されたと伝わっているが、瑜伽洞の歴史はそれよりも古く、その原型は古墳時代の横穴墓ないし横穴式住居の跡であるとも言われている(が横穴式住居は旧石器時代の洞穴遺跡を除けば日本列島には存在しない)。 伝説では和田義盛の三男朝比奈義秀が弁才天を祀っていて、1213年(建暦3年)に起きた和田合戦で義秀がこの洞窟(「厄除大師」とよばれるスポット)を伝って落ち延びたという。また鎌倉幕府滅亡の際にも、落武者が逃れたという。裏山にそれに関連するともいう十三塚がある。近隣の御霊神社にまで洞窟が伸びていたともいわれる。これらの当否はともかく、鎌倉時代に真言密教の修行場として開鑿されたのが直接の起源である。その後江戸時代には洞門が閉ざされるなど、洞窟は寂れてしまった。しかしさらにその後の天保年間、洞内に流れる音無川の水を田谷地区の灌漑に活かそうということになり、再びこの洞窟の開鑿が開始され、同時に修行場としての整備も再開されることとなった。明治初期の廃仏毀釈運動の影響でこのときもしばらく洞門が閉じられ、また関東大震災ではこの洞窟に関する史料が散逸するなど被害を受けたが、1927年(昭和2年)には洞窟が一般に公開されるようになり現在に至っている。 1990年(平成2年)11月1日、横浜市登録地域文化財に登録された。 定泉寺は、当初、鶴岡二十五坊の道場であったのが、近世には烏山三会寺(現在の横浜市港北区)末となり、そのまま高野山真言宗に属していた。第二次世界大戦後、同じ古義真言宗の系統である真言宗大覚寺派に転じている。
※この「洞窟と定泉寺の沿革」の解説は、「瑜伽洞」の解説の一部です。
「洞窟と定泉寺の沿革」を含む「瑜伽洞」の記事については、「瑜伽洞」の概要を参照ください。
- 洞窟と定泉寺の沿革のページへのリンク