水野氏とは? わかりやすく解説

水野氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/24 20:33 UTC 版)

水野氏(みずのし)は、武家華族だった日本の氏族。戦国時代には三河国刈谷城主であり、徳川家康の母・於大の方(伝通院)の実家にあたり、桶狭間の戦い後に家康に仕えた[1]江戸時代には譜代大名の一つだった[2]。しばしば幕府の老中を出し、特に天保の改革水野忠邦が著名[2]明治時代初期の廃藩置県まで残った大名の水野家に下総結城藩主家、上総菊間藩主家、上総鶴牧藩主家、近江朝日山藩主家、それに紀州藩付家老だった紀伊新宮藩主家を加えた5家があり、華族令施行後には前者4家の水野家が子爵[3]、付家老の水野家が男爵に列した[4]


江戸時代前

忠重流

忠守流

  1. ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典『水野氏』 - コトバンク
  2. ^ a b 日本大百科全書(ニッポニカ)『水野氏』 - コトバンク
  3. ^ 小田部雄次 2006, p. 337-338.
  4. ^ a b 小田部雄次 2006, p. 341.
  5. ^ 於大の方と小川氏”. 2023年1月23日閲覧。
  6. ^ 小川雄「今川氏の三河・尾張経略と水野一族」戦国史研究会 編『論集 戦国大名今川氏』(岩田書院、2020年) ISBN 978-4-86602-098-3 P166-168.
  7. ^ 小川雄「今川氏の三河・尾張経略と水野一族」戦国史研究会 編『論集 戦国大名今川氏』(岩田書院、2020年) ISBN 978-4-86602-098-3 P168-171.
  8. ^ a b 「元興」の没年は『寛政譜』新訂6巻106頁に示されているが、逆算すると生年は1547年となり、「清忠」の没年と矛盾する。『寛永系図』でも同様のため、『寛政譜』では清忠の没年の方を疑い、また元興の年齢を誤ったのではと指摘する。
  9. ^ 城跡は愛知県東海市荒尾町金山周辺
  10. ^ ただしこの巻は水野忠守の子、右馬允「守信」から分かれた「藤兵衛家」の呈譜によるもの。後に寺社奉行として「士林泝洄」編纂にも関わる家であるが、常滑水野家と直系になるわけではない。
  11. ^ a b c 小田部雄次 2006, p. 338.
  12. ^ a b c 華族大鑑刊行会 1990, p. 349.
  13. ^ 小田部雄次 2006, p. 337.
  14. ^ a b 華族大鑑刊行会 1990, p. 354.
  15. ^ a b c 華族大鑑刊行会 1990, p. 365.
  16. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 654.
  17. ^ 松田敬之 2015, p. 704.
  18. ^ 松田敬之 2015, p. 704-705.


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