民俗学者としてとは? わかりやすく解説

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民俗学者として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 15:37 UTC 版)

渋沢敬三」の記事における「民俗学者として」の解説

並行して若き日柳田國男との出会いから民俗学傾倒し漁業史分野功績残した祖父栄一没後1932年昭和7年)には、療養のため訪れた静岡県内浦(現在の沼津市)大川四郎左衛門文書発見一つ400年にわたる歴史と海に暮らす人々の生活記録されていたこの文書持ち帰って、これを筆写した。 そしてアチック同人とともに纏めた豆州内浦漁民史料』を刊行し1940年昭和15年日本農学賞を受賞した。他に『日本釣魚技術史小考』、『日本名集覧』、『塩俗問答集』などを著した港区三田自邸車庫屋根裏に、二高時代同級生とともに動植物標本化石郷土玩具などを収集した私設博物館「アチック・ミューゼアム(屋根裏博物館)」を開設第二次大戦中日本常民文化研究所改称)。アチック・ミューゼアムに収集された資料は、東京保谷にあった日本民族学会附属民族学博物館経て、現在は大阪吹田万博公園内の国立民族学博物館収蔵資料母体となり、常民文化研究所は神奈川大学移管された。なお三田の旧渋沢邸は、戦後国所有になり大蔵相公邸などに使われその後取り壊しの案も出たが、1991年平成3年)に渋沢家執事をしていた杉本行雄により青森県三沢市古牧温泉渋沢公園移設され展示されていた。現在は所有権清水建設買い取り清水建設創業二代目がこの渋沢邸を設計した2023年江東区移築し一般公開する予定東京北区飛鳥山公園内にある渋沢史料館でも敬三の事績紹介されている。 また、栄一没後竜門社企画した日本実業博物館」を主導し書籍絵画(含む広告)、器物紙幣など近世経済史資料収集進めるが、戦時統制経済影響建築資材集められずに挫折する戦後建設模索し続けた実現せず収集された資料1951年文部省史料館寄託1962年に敬三自身により正式に寄贈している。 多く民俗学者育て岡正雄宮本常一今西錦司江上波夫中根千枝梅棹忠夫網野善彦伊谷純一郎らが海外調査際し、敬三の援助受けている。他にも多く研究者給与調査費用出版費用など莫大な資金注ぎ込んで援助し、自らも民俗学にいそしんだのは、幼い頃から動物学者なりたかったものの諦めざるを得なかった心を癒したものとみえる。敬三と、柳田をはじめ多く研究者との交友様子は、友人でもあった岡茂雄岡書院店主)の回想本屋風情』に詳しい。

※この「民俗学者として」の解説は、「渋沢敬三」の解説の一部です。
「民俗学者として」を含む「渋沢敬三」の記事については、「渋沢敬三」の概要を参照ください。

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