民主党入党
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1998年3月12日、院内会派「民主友愛太陽国民連合」を構成する民政党・旧・民主党(菅直人代表)・新党友愛(中野寛成代表)・民主改革連合(笹野貞子代表)の4党は夏に予定されている参院選前の統一新党結成に合意し、3月16日に「統一準備会」を設置。鹿野はその座長に就任し、各党の折衝にあたった。 4月27日、民主党が他の3党を吸収する形で新・民主党が結成。入党後、民政党出身者で党内グループの政権戦略研究会(羽田グループ)を立ち上げる。当初は領袖である羽田の首相再登板を目指していたが、離脱者の続出や羽田の高齢化などから現在ではあまりグループの行動は見られない。 鹿野自身は入党直後から政治改革本部長を務め、1999年1月に菅代表が再選された後には国会対策委員長に就任。国対委員長在任中の7月22日に衆議院本会議で行われた国旗国歌法採決では、民主党の党議拘束をはずして自身は賛成に回った。同年10月、鳩山由紀夫が民主党の新代表に就任し、これに伴い国対委員長を離任、民主党副代表となる。更に11月には民主党憲法調査会が発足し初代会長に就任。翌年1月、衆議院に憲法調査会が設置されると幹事として名を連ね、中山太郎会長の下で会長代理も務めた。 2002年、元秘書の経営するコンサルタント会社が公共工事の口利きに関与し、多額の手数料を得ていたという汚職が発覚(業際研事件)。元秘書が競争入札妨害罪及び収賄罪の疑いで逮捕された。秘書在任中の事件ではなく鹿野本人の関与も否定されたが、後に鹿野が9年間にわたり親族が経営する企業に元秘書3人の給与3390万円を肩代わりさせていた事実が発覚し、2月4日に政治改革本部長の辞任を、さらに2月6日には民主党離党を表明した。離党後の4月8日には予算委員会で参考人招致を受けている。 約1年半の無所属暮らしを経た後、2003年9月23日に民主党の岡田克也幹事長が鹿野に復党を要請、鹿野もこれに応じ、民由合併に合わせる形で民主党に復党した。直後の第43回衆議院議員総選挙では初めて自民党の遠藤利明に小選挙区で敗れ、比例復活により当選(過去2回は小選挙区で鹿野が勝利)。 2004年9月、民主党に常任幹事会議長が新設され、これに鹿野が就任するも翌年の第44回衆議院議員総選挙では要職にありながら小泉旋風の煽りを受けて再び遠藤に敗れ、比例復活もできず初の落選を喫する。
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民主党入党
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知事選挙の後は新進党に復党せず、弁護士を経て民主党に入党。 1998年、第18回参議院議員通常選挙に岡山県選挙区から民主党公認で立候補し、2年ぶりに国政に復帰した。 2003年の衆議院東京都第6区補欠選挙では、元NHKアナウンサーで、参議院議員からの鞍替えを目指す小宮山洋子の選挙対策副本部長を務める(選対本部長は羽田孜)。なおこの補欠選挙は、かつて江田の公設秘書であった石井紘基が殺害されたことに伴うものであった。 2004年、改選議席数が2から1に改められた岡山県選挙区で再選。 2006年3月31日、民主党代表の前原誠司が、堀江メール問題の責任をとり辞任を表明。前原の辞任に伴う代表選挙(4月7日実施)では菅直人の推薦人に名を連ねた。
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