森川許六
森川許六
(明暦2年(1656)8月14日~正徳5年(1715)8月26日)
本名森川百仲。別号五老井・菊阿佛など。 「許六」は芭蕉が命名。一説には、許六は槍術・剣術・馬術・書道・絵画・俳諧の6芸に通じていたとして、芭蕉は「六」の字を与えたのだという。彦根藩重臣。桃隣の紹介で元禄5年8月9日に芭蕉の門を叩いて入門。画事に通じ、『柴門の辞』にあるとおり、絵画に関しては芭蕉も許六を師と仰いだ。 芭蕉最晩年の弟子でありながら、その持てる才能によって後世「蕉門十哲」の筆頭に数えられるほど芭蕉の文学を理解していた。師弟関係というよりよき芸術的理解者として相互に尊敬し合っていたのである。『韻塞<いんふさぎ>』・『篇突<へんつき>』・『風俗文選』、『俳諧問答』などの編著がある。
許六の代表作
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うの花に芦毛の馬の夜明哉(『炭俵』 『去来抄』)
麥跡の田植や遲き螢とき(『炭俵』)
やまぶきも巴も出る田うへかな(『炭俵』)
在明となれば度々しぐれかな(『炭俵』)
はつ雪や先馬やから消そむる(『炭俵』)
禅門の革足袋おろす十夜哉(『炭俵』)
出がはりやあはれ勸る奉加帳(『續猿蓑』)
娵入の門も過けり鉢たゝき(『續猿蓑』)
腸をさぐりて見れば納豆汁(『續猿蓑』)
大名の寐間にもねたる夜寒哉(『續猿蓑』)
森川許六
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/09/17 14:31 UTC 版)
森川 許六(もりかわ きょりく)は、江戸時代前期から中期にかけての俳人、近江蕉門。蕉門十哲の一人。名は百仲、字は羽官、幼名を兵助または金平と言う。五老井・無々居士・琢々庵・碌々庵・如石庵・巴東楼・横斜庵・風狂堂など多くの別号がある。近江国彦根藩の藩士で、絵師でもあった。
- ^ a b 『近江の先覚 [第1集]』 滋賀県教育会〈近江文化叢書7〉、1951年、p.169、「森川許六」の項
- ^ a b c d 木村至宏ほか編 『近江人物伝』 (弘文堂書店、1976年)p.15、「森川許六」の項
- ^ a b c d 「森川許六」『滋賀県百科事典』 大和書房、1984年1月、ISBN 978-4-4799-0012-2
- ^ 『古画備考』
- ^ a b c d e f 石丸正運 『近江の画人たち』 サンブライト出版〈近江文化叢書7〉、1980年、p.30、「森川許六」
- ^ 堀切実『芭蕉の門人』 岩波書店〈岩波新書〉、1991年10月、ISBN 978-4-0043-0190-5
- ^ 『侍中由緒帳』第6巻 1999年)
- ^ 国立国会図書館所蔵
- ^ 松村明編 『大辞林 第三版』 三省堂、2006年10月、ISBN 978-4-3851-3905-0
- ^ 加藤周一編 『世界大百科事典 第2版』 平凡社、2005年
- ^ 彦根城博物館編集・発行 『彦根龍潭寺方丈 森川許六の障壁画』 1989年1月
- ^ 高木文恵 「森川許六と絵画 ─俳諧と画との関係─」『二〇〇六年度 鹿島美術研究 年報第24号別冊』、2007年11月15日、pp.75-83。
森川許六(もりかわ きょりく)
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「蕉門十哲」の記事における「森川許六(もりかわ きょりく)」の解説
明暦2年(1656年) - 正徳5年(1715年) 晩年になって入門。画の名人で芭蕉に画を教える。
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