桓温との対立とは? わかりやすく解説

桓温との対立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 00:42 UTC 版)

殷浩」の記事における「桓温との対立」の解説

永和3年347年)、安西将軍桓温成漢征伐をという大功挙げた事により、その声望大い振るった。だが、朝廷は彼を制御出来なくなるのを憂慮し警戒強めた殷浩もまた大い名声博しており、官民問わず推崇する所であったので、司馬昱は彼を側近として朝政参画させる事で桓温牽制しようとした。だが、これにより殷浩桓温の間には亀裂入った。 この時期、父の殷羨が没したことにより殷浩は職を辞し、喪に服した司馬昱代わりに蔡謨に揚州を預からせ、殷浩復帰待った。喪が明けると、建康召されて尚書僕射任じられたが、これを受けなかった。その後、再び建武将軍揚州刺史復帰すると、朝政参画するようになった当時、征北長史荀羨・前江州刺史王羲之は共に名声博していたので、殷浩荀羨義興郡太守呉国内史に、王羲之護軍将軍抜擢し、自らの側近とした。王羲之密かに殷浩荀羨へ、桓温協調するよう勧め内部対立するべきではないと説いたが、殷浩は従わなかった。 永和5年349年6月後趙皇帝石虎崩御すると、後継争いにより後趙分裂し中原大混乱陥った永和6年350年)、東晋朝廷はこれを黄河流域関中奪還好機であると考え殷浩を仮節・都督揚豫徐兗青五州諸軍事・中軍将軍任じ北府軍団の長として北征委ねた殷浩はこの命を受け、中原奪還を自らの責務とするようになった。 この時、桓温もまた後趙混乱中原奪還好機捉え安陸へ出鎮して諸将北方を窺わせており、さらに朝廷上疏して軍の動員請うたが、殷浩始めとした朝臣桓温出征反対していたので、長い間返答しなかった。後に桓温殷浩らが作戦反対していることを知り、ひどく憤ったという。ただその一方殷浩人となりのついては熟知していたので、大し脅威には感じていなかったという。 12月、蔡謨は3年前司徒任じられいたもののその職務に就こうとせず、帝や太后十数回に渡って出仕するよう促したが、病が重篤である事を理由応じなかった。殷浩上表し、責任取って人事司る吏部尚書江虨を免官とするよう請うた。司馬昱もまた事態重く見て蔡謨を罪に問う事について議すと、蔡謨はこれを大い恐れ子弟連れて素服朝堂到来し跪いて謝罪した殷浩は彼を重罪に処そうと考えていたが、徐州刺史荀羨諫めより取りやめ、庶人に落とす事とした。 永和7年351年12月桓温いつまで動かない朝廷の対応痺れ切らし、再び上奏文を送ると共に5万の軍を率いて長江下って武昌駐留して建康威圧した桓温到来の報に朝廷震え上がり騶虞幡(晋代皇帝停戦の節)を立てて桓温軍を留めようとしたまた、殷浩辞職して桓温実権譲ろうとしたが、吏部尚書王彪之(王彬の子)の説得により踏みとどまった司馬昱桓温に書を送って国家方針説明し、また朝廷より疑惑抱かれていることを忠告した。これを受けて桓温は軍を返すと共に上疏して、武昌へ軍を動かしたのは趙・魏の地を掃討するための準備であり、(桓温反乱目論んでいるという)疑惑についても弁明したまた、北伐許可されない件について不満を漏らし朝廷内に蔓延る佞臣殷浩)の存在痛烈に批判した

※この「桓温との対立」の解説は、「殷浩」の解説の一部です。
「桓温との対立」を含む「殷浩」の記事については、「殷浩」の概要を参照ください。

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