桓温との対立
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永和3年(347年)、安西将軍桓温は成漢征伐をという大功を挙げた事により、その声望は大いに振るった。だが、朝廷は彼を制御出来なくなるのを憂慮し、警戒を強めた。殷浩もまた大いに名声を博しており、官民問わず推崇する所であったので、司馬昱は彼を側近として朝政に参画させる事で桓温を牽制しようとした。だが、これにより殷浩と桓温の間には亀裂が入った。 この時期、父の殷羨が没したことにより殷浩は職を辞し、喪に服した。司馬昱は代わりに蔡謨に揚州を預からせ、殷浩の復帰を待った。喪が明けると、建康に召されて尚書僕射に任じられたが、これを受けなかった。その後、再び建武将軍・揚州刺史に復帰すると、朝政に参画するようになった。 当時、征北長史荀羨・前江州刺史王羲之は共に名声を博していたので、殷浩は荀羨を義興郡太守・呉国内史に、王羲之を護軍将軍に抜擢し、自らの側近とした。王羲之は密かに殷浩・荀羨へ、桓温と協調するよう勧め、内部で対立するべきではないと説いたが、殷浩は従わなかった。 永和5年(349年)6月、後趙皇帝石虎が崩御すると、後継争いにより後趙は分裂し、中原は大混乱に陥った。永和6年(350年)、東晋朝廷はこれを黄河流域や関中奪還の好機であると考え、殷浩を仮節・都督揚豫徐兗青五州諸軍事・中軍将軍に任じ、北府軍団の長として北征を委ねた。殷浩はこの命を受け、中原奪還を自らの責務とするようになった。 この時、桓温もまた後趙の混乱を中原奪還の好機と捉え、安陸へ出鎮して諸将に北方を窺わせており、さらに朝廷へ上疏して軍の動員を請うたが、殷浩を始めとした朝臣は桓温の出征に反対していたので、長い間返答しなかった。後に桓温は殷浩らが作戦に反対していることを知り、ひどく憤ったという。ただその一方、殷浩の人となりのついては熟知していたので、大して脅威には感じていなかったという。 12月、蔡謨は3年前に司徒に任じられていたもののその職務に就こうとせず、帝や太后は十数回に渡って出仕するよう促したが、病が重篤である事を理由に応じなかった。殷浩は上表し、責任を取って人事を司る吏部尚書江虨を免官とするよう請うた。司馬昱もまた事態を重く見て蔡謨を罪に問う事について議すと、蔡謨はこれを大いに恐れ、子弟を連れて素服で朝堂に到来し、跪いて謝罪した。殷浩は彼を重罪に処そうと考えていたが、徐州刺史荀羨の諫めにより取りやめ、庶人に落とす事とした。 永和7年(351年)12月、桓温はいつまでも動かない朝廷の対応に痺れを切らし、再び上奏文を送ると共に、5万の軍を率いて長江を下って武昌に駐留して建康を威圧した。桓温到来の報に朝廷は震え上がり、騶虞幡(晋代の皇帝の停戦の節)を立てて、桓温軍を留めようとした。また、殷浩は辞職して桓温に実権を譲ろうとしたが、吏部尚書王彪之(王彬の子)の説得により踏みとどまった。司馬昱は桓温に書を送って国家の方針を説明し、また朝廷より疑惑を抱かれていることを忠告した。これを受けて桓温は軍を返すと共に上疏して、武昌へ軍を動かしたのは趙・魏の地を掃討するための準備であり、(桓温が反乱を目論んでいるという)疑惑についても弁明した。また、北伐が許可されない件について不満を漏らし、朝廷内に蔓延る佞臣(殷浩)の存在を痛烈に批判した。
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