桓温の北伐
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 00:24 UTC 版)
369年4月、貴妃の可足渾氏を皇后に立てた。 同月、東晋の大司馬桓温が徐兗二州刺史郗愔、江州刺史・南中郎桓沖、豫州刺史・西中郎袁真、江夏相劉岵らを従え、歩兵騎兵合わせて5万を率いて前燕へ侵攻した。 6月、桓温は金郷から鉅野を経由し、清水から黄河に入った。また、建威将軍檀玄に湖陸を攻撃させ、これを陥落させて寧東将軍慕容忠を捕らえた。慕容暐は撫軍将軍・下邳王慕容厲を征討大都督に任じて歩兵・騎兵2万の兵を与えて迎撃させたが、慕容厲は黄墟で大敗を喫し、かろうじて単騎で帰還した。これにより、前燕の高平郡太守徐翻は郡ごと降伏した。さらに、桓温は前鋒の鄧遐と朱序を林渚に派遣し、前燕の護軍将軍傅顔を破った。これにより東晋軍の戦意を大いに奮った。慕容暐はさらに楽安王慕容臧に諸軍を統率させて迎撃を命じたが、慕容臧もまた桓温の勢いを阻むことが出来ず、彼は散騎常侍李鳳を前秦へ派遣して救援を要請した。 7月、桓温は武陽に駐屯すると、前燕のかつて兗州刺史であった孫元が一族郎党を率いて桓温に呼応した。桓温はさらに枋頭まで進むと、慕容暐は大いに恐れ、慕容評と共に龍城へ撤退しようとしたが、呉王慕容垂は「臣が迎撃いたします。もしも勝てなければ、それから逃げても遅くありません」と言った。これにより、慕容臧に代わって慕容垂を使持節・南討大都督に任じ、征南将軍慕容徳を始めとした5万の兵を与えて桓温を防がせた。また慕容垂の上表により、司徒左長史申胤・黄門侍郎封孚・尚書郎悉羅騰をいずれも参軍従事として配下につけた。さらに、慕容暐は散騎常侍楽嵩を使者として前秦へ派遣し、虎牢以西の地を割譲する事を条件に援軍を要請した。 8月、前秦は要請に応じ、将軍苟池・洛州刺史鄧羌へ騎兵2万を与え、洛陽から潁川へ派遣した。また、散騎侍郎姜撫を前燕へ派遣し、救援に応じる旨を伝えさせた。表向きは救援を名目にしていたものの、裏では密かに前燕の内情を探って併呑の隙を見つける事を目的としていた。 桓温は前燕からの降将である段思を嚮導(行軍の案内役)にしていたが、悉羅騰は桓温軍を攻撃して段思を捕らえた。桓温はまた後趙の旧将である李述を将軍として取り立て、魏・趙方面へ侵攻させていたが、悉羅騰は虎賁中郎将染干津と共に李述を攻撃して撃ち破り、桓温の士気を削いだ。 桓温は石門を開いて水運を通すため、豫州刺史袁真に命じて譙梁攻略に向かわせた。袁真は譙梁を攻略するも石門を開くには至らず、兵糧の運搬が滞って次第に晋軍の兵糧が底を突き始めた。 9月、范陽王慕容徳は騎兵1万を、蘭台治書侍御史劉当は騎兵5千を率いて石門に駐屯して水路での糧道を阻み、豫州刺史李邽は五千の兵を率いて陸路での糧道を遮断した。また、慕容徳は将軍慕容宙に1000騎を与えて前鋒とし、東晋軍を攻撃させた。慕容宙は800騎を三方に伏せると共に、200騎のみで東晋軍に挑ませると、戦わずして後退させた。東晋軍がこれを追撃すると、伏せていた兵により奇襲をかけ、東晋軍に大打撃を与えて多数を討ち取った。 桓温は戦況が不利となり、兵糧が不足しているのに加え、前秦から援軍が到来しているとの報を受けたので、舟を焼き払い、輜重や武具を放棄して陸路で退却を始めた。東燕より倉垣へ出ると、井戸を掘って水を確保しながら700里余りを進んだ。 慕容垂は騎兵八千を率いて徐行してその後を追い、桓温が撤退の速度を速めるとこれを急追し、襄邑で追いついた。慕容徳は軽騎四千を率いて間道より先行し、襄邑の東の谷川に兵を伏せており、共に東晋軍を挟撃して3万を討ち取った。前秦の将軍苟池もまた桓温が軍を後退させたと聞いて焦において攻撃し、桓温軍は1万の被害を受けた。孫元は武陽に拠って前燕に抵抗したが、前燕の左衛将軍孟高はこれを捕らえた。 10月、桓温は山陽まで退却すると敗残兵を収集した。また、この敗戦を大いに恥じ、その罪を全て袁真に帰し、彼を廃して庶人に降とすよう上表した。袁真は桓温に誣告されたと知り大いに怨み、寿陽に拠点を構えて密かに前燕と内通し、救援を請うた。慕容暐は大鴻臚温統を派遣して袁真を使持節・都督淮南諸軍事・征南大将軍・護南蛮校尉・揚州刺史に任じ、宣城公に封じる旨を伝えさせたが、温統は淮河に至る前に亡くなった。
※この「桓温の北伐」の解説は、「慕容暐」の解説の一部です。
「桓温の北伐」を含む「慕容暐」の記事については、「慕容暐」の概要を参照ください。
- 桓温の北伐のページへのリンク