架橋前史とは? わかりやすく解説

架橋前史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/27 01:29 UTC 版)

黒之瀬戸大橋」の記事における「架橋前史」の解説

黒之瀬戸横断する渡船は、昭和初期になるまで個人経営であり、不定期に民間の船を借り上げて渡る形態であったという。1896年明治29年)の記録によれば渡し賃当時4銭2厘であった1929年昭和4年)に木造の5トン動力船長島丸」を県が建造し就航したが、県道有料渡船不当であるという運動起き1931年昭和6年5月から地元請負事業として県から補助金受けて運航するようになった1935年昭和10年)には第二長島丸(木造12トン)が建造されて、1945年昭和20年)頃まで運航された。しかし戦争激化と船の老朽化により、1946年昭和21年)末まで運航休止となり、漁船で人や荷物代行輸送していた。 1946年昭和21年12月13日告示328号により県営移管されて渡船再度運航されるようになった県営渡船発着地は、長島最南端にある瀬戸港で、対岸にある黒之浜港との間を結んでいた。1958年昭和33年8月初めてのフェリーである黒之瀬戸丸(木造47トン)が就航した1962年昭和37年)には鋼製74.59トン第二黒之瀬戸丸が投入され1968年昭和43年)には鋼製78.07トン第三黒之瀬戸丸が投入された。1969年昭和44年)には木造79.42トン第一黒之瀬戸丸が投入され翌年旧来の黒之瀬戸丸が売却された。 このように次第大型の船を投入し運航回数増やしてきて、昭和30年代末には1日21運航達していた。しかし自動車急増して大衆化するとともに渡船車両積み残し常態化し、通航車両の多いときは2時間から3時待たされる態となっていた。このため1963年昭和38年10月24日阿久根市東町長島町の3者で黒之瀬戸架橋促進期成同盟結成して架橋運動開始された。 陳情繰り返した結果1966年昭和41年)になり予備検討路線指定され日本道路公団から複数回の調査団現地訪れた当時内閣総理大臣佐藤栄作への陳情なども行った結果1969年昭和44年1月14日年内着工内定報じられた。ただし実際には、翌1970年昭和45年4月1日に、阿久根市脇本工事事務所開設されるところから建設開始されることになった事業主体は、日本道路公団黒之瀬戸大橋工事事務所となった

※この「架橋前史」の解説は、「黒之瀬戸大橋」の解説の一部です。
「架橋前史」を含む「黒之瀬戸大橋」の記事については、「黒之瀬戸大橋」の概要を参照ください。

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