松前丸
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1923年(大正12年)6月13日 - 起工(三菱造船長崎造船所) 1924年(大正13年)10月24日 - 竣工 1941年(昭和16年)2月11日 - 穴澗沖に座礁 ボイラー室浸水 2月14日離礁 1942年(昭和17年)春 - 6号缶の水管破裂、火手3名死亡 1945年(昭和20年)7月14日 – 函館5時50分発の14便として出航準備中の4時45分、空襲警報発令されたため、旅客のみ下船させ、貨車26両積載のまま5時24分離岸し港外退避。5時42分、防波堤灯台航過したところで、松前丸に先行し、函館を5時08分、194便として出航し、葛登支岬沖を航行中の第四青函丸周辺に水柱数本立つのを視認した。松前丸は当時、操舵室屋上左右に25ミリ機関銃各1基、後部左右に13ミリ機関銃各1基を装備し、連絡船の中では最強の武装であった。5時53分よりアメリカ軍機の来襲あり、函館湾内で縫航運動を行い空襲から逃れようとしたが、攻撃は執拗で、沈没回避のため七重浜への座洲を決断し、七重浜へ向け全速運転した。その後、6時18分には端艇甲板を貫通し機関室内右舷に達する命中弾を受け火災発生し、以後減速していったが、6時30分、第3防砂底堤西約1,000mの七重浜に座洲した。しかし火災激しく、6時45分総員退船発令。乗組員95名中22名が戦死。アメリカ軍機1機を撃墜、1機撃破している。
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