松前家の移封
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/13 13:33 UTC 版)
廃藩後は宝暦5年(1755年)に会津藩(松平家)飛地、宝暦6年(1756年)に磐城平藩飛地、安永7年(1778年)に幕府領、寛政2年(1790年)に再び磐城平藩飛地、享和3年(1803年)再び幕府領となっていた。文化4年(1807年)、蝦夷地召し上げに伴い松前藩主松前章広が9千石(実高1万8600石)にて転封となった。この国替えは、蝦夷交易の運上金により数万石の大名とみなされていた松前家にとって、改易に等しいものだった。転封の理由は資料により様々であるが(密貿易説、藩主の放蕩説)、転封前にロシア船に対して万全の警備をするよう沙汰があったのにもかかわらずそれを怠ったことと、幕府が蝦夷地を直接支配して北方警備を強化する方針をとったこと、後の松前家の蝦夷地復帰理由が「北方に対する備えが整ったため」であったことから、防備の軽視が転封の理由となったという立場もまた有力視されている。 梁川に転封された松前家は、まず財政難に直面した。蝦夷においては商場知行という形で知行地を家臣に与えていたが、梁川では石高制度に切り替える必要があり、その収入も家臣団を賄えないほどに激減した。松前家は財政規模に合わせて240名余りの家臣を除籍し、梁川に連れてくることができた家臣は111名であった。 松前氏が梁川で積極的に治世を行った記録は残されていない。それは藩政の方針が倹約、粗食を常とし、領民と事を構えないことを第一としたためであり、松前家はひたすら幕府や公家に蝦夷地への復帰を働きかけた。その努力が実ったのは移封から15年後の文政4年(1821年)であった。ついに国替えの沙汰が下り、松前家に蝦夷地が返還されたため梁川藩は再び廃藩となった。その後、梁川は再び幕府の管理地となるが、安政2年(1855年)には松前家の飛地領となり、明治4年に福島県に属するまで、館藩、ついで館県の一部とされた。
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