東邦商業学校創設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 14:46 UTC 版)
民義が副社長を務める名古屋電灯は、1920年(大正9年)から翌年にかけて愛知県・岐阜県の事業者計6社を相次いで合併し、資本金4,848万円余りを擁する電力会社に発展。さらに1921年(大正10年)10月には奈良県の関西水力電気と合併し、資本金6,914万円余りの関西電気株式会社(本社名古屋市)が成立した。関西電気となった後も名古屋電灯時代と同様に福澤桃介が社長、民義が副社長であったが、同年12月、初めての定時株主総会の席において福澤桃介は取締役社長を辞任、相談役に退いた。この時民義も福澤と同様、取締役副社長を辞任した。後任社長には福岡県の九州電灯鉄道にて社長を務める伊丹弥太郎が、後任副社長には同社常務取締役の松永安左エ門がそれぞれ就任。翌1922年(大正11年)5月には関西電気と九州電灯鉄道の合併が成立し、同年6月に関西電気が改称する形で中京地方と九州地方を供給区域とする資本金1億円超の電力会社東邦電力株式会社(本社東京)が発足した。同時代の名古屋の実業家青木鎌太郎によると、福澤や民義など関西電気(東邦電力)の重役が退陣したのは、市会における電政派の問題の責任をとったことも理由にあった模様であるという。 また名古屋電灯に関連する大阪送電(民義は常務取締役)・木曽電気興業(同副社長)の2社と山本条太郎が社長を務める日本水力が合併し、1921年2月、資本金1億円の大同電力株式会社が発足する。合併に先立って1920年11月、存続会社の大阪送電で役員改選(大同電力の役員選任)を行った際、社長には福澤桃介が就任したが(以降関西電気退陣後の1928年まで在職)、副社長には日本水力から宮崎敬介が入り、民義は副社長・常務からも退いて(平)取締役となった。 このように財界活動の中心基盤であった関西電気副社長から退任するなど実業界からやや離れ余裕を得た民義は、晩年の事業として教育事業に傾注することとなった。このため衆議院議員の再出馬(解散がなければ任期は1924年5月まで、実際には同年1月解散)を断念。副社長退任時の退職金を学校設立基金に投入し、自ら設立者および校主となって学校の設立認可を受け、1923年(大正12年)4月、名古屋市に東邦商業学校(東邦高等学校の前身)を開校した。同校の初代校長には同じ「電政派」の市会議員であった大喜多寅之助を招き、電気製鋼所支配人をすでに退任していた長男の義雄に加えて豊田利三郎を同校理事に任じた上、教員も民義の人脈により各方面から著名人を集めた。民義は後に東邦商業学校について「過去の永き経験に徴し、現代社会の求むる着実なる実業青年を養成し以て社会的報恩の一端に資する希望の下に創立した」と語っている。 1923年1月、名古屋株式取引所理事長に就任し、1924年12月に前任の高橋彦次郎へ交代するまで務める。また義雄が専務を務めていたが不況のため苦戦していた名古屋紡績の社長に1924年に就任したが、これは後に日東紡績へ合併した。
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