朱印船貿易と台湾とは? わかりやすく解説

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朱印船貿易と台湾

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 17:22 UTC 版)

タイオワン事件」の記事における「朱印船貿易と台湾」の解説

朱印船貿易が行われていた江戸時代初期、明(中国)は朱元璋以来冊封された国としか貿易行なっていなかった上に朝鮮の役による影響により日本商船はほぼ中国本土寄港することはできなかった。そのために中継ぎ貿易として主な寄港地アユタヤタイ)やトンキンベトナム)などがあり、また台湾島南部には昔から明(中国)や日本の船などが寄航する港が存在した当時日本ポルトガル王国ポルトガル)、ネーデルラント連邦共和国オランダ)、イギリス第一帝国イギリス)の商人日本貿易東洋貿易主導権争い過熱させる時代でもあり、1622年元和8年)には明(中国)のマカオにあるポルトガル王国居留地ネーデルラントオランダ)が攻撃した。 しかし敗退したネーデルラントオランダ)は対策として台湾澎湖諸島占領し要塞築いてポルトガル備えた。このことに明(中国)は大陸から近い事を理由澎湖諸島要塞放棄することを要請し無主の島である台湾から貿易をすることを求めたため、2年後1624年寛永元年)、ネーデルラントオランダ)は台湾島占領、熱遮(ゼーランディア)城を築いて台南安平タイオワン呼び始める。オランダタイオワン寄港する外国船に10%関税をかけることとした。中国商人はこれを受け入れたが、浜田弥兵衛長崎代官朱印船貿易家1人でもある末次平蔵配下)ら日本商人達はこれを拒否した。これに対しオランダピーテル・ノイツ台湾行政長官任命し1627年寛永4年)、将軍徳川家光との拝謁幕府との交渉求め江戸に向かわせた。 ノイツの動き知った末次平蔵行動に出る。同1627年浜田弥兵衛台湾島から日本向けて16人の台湾先住民連れて帰国。彼らは台湾全土将軍捧げるためにやって来た「高山国からの使節団」だと言い将軍徳川家光拝謁する許可求めた。しかし当時台湾流行り病激しく一様に疱瘡患っていたため理加という者のみを代表として拝謁させ、残りは庭に通すのみの待遇となった。彼らはあまりにも汚れていたため、城の者から2度連れてないようと言われたという話もあり具体的な話が進められたわけではなく遠路から労い含め皆、将軍家光から贈り物授かり一旦帰国の途に着いたしかしながら結果としてノイツの家光への拝謁阻止することに成功し、ノイツは何の成果もなく台湾戻った

※この「朱印船貿易と台湾」の解説は、「タイオワン事件」の解説の一部です。
「朱印船貿易と台湾」を含む「タイオワン事件」の記事については、「タイオワン事件」の概要を参照ください。

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