朱印船貿易との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 03:42 UTC 版)
日本は明との公式な貿易が禁じられていたが、中国人が東南アジアに進出するにつれて、16世紀末から日本人と中国人が東南アジアで取り引きを増やすようになる。幕府は朱印状を発行して、海外渡航船の管理を行った。朱印状は日本を拠点とすれば国籍に関係なく発行された。ポルトガル人も朱印状を受け取っており、マカオ商人ヴィセンテ・ロドリゲスに朱印状が発行された記録がある。マカオ商人の朱印状には、イエズス会が協力していた。 スペインはポルトガルに遅れてアメリカ大陸を経由して太平洋航路を開拓した。スペイン領であるノビスパンのアカプルコとルソン島のマニラをつなぐマニラ・ガレオンを始める。スペインがマニラから日本を訪れると、徳川家康はスペインとの貿易に積極的になり、京都の商人田中勝介をノビスパンに派遣した。また、ポルトガル商人が生糸の独占的利益を得ていたため、これを削ぐことを目的として京都・堺・長崎の商人に糸割符仲間を結成させた。家康の頃はキリスト教は禁止されてはいたものの貿易は推奨されていた。しかし、その後の江戸幕府は、禁教政策の徹底や、国際紛争の悪影響を防ぐ観点から、海外との貿易の管理・統制を次第に強めていった。ヨーロッパ人との交易は平戸と長崎に限られるようになり、スペイン船の来航が禁止された。のちにはアユタヤで長崎町年寄の高木作右衛門の朱印船とスペイン艦隊の間で紛争が起きて、朱印船が焼き払われるアユタヤ事件が起きる。幕府では朱印状の権威がないがしろにされたとして、朱印船に代わって奉書船へと移行した。
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