時代による変遷
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筑後川は時代によっては千歳川・千年川(ちとせがわ)、一夜川(いちやがわ)、筑間川(ちくまがわ)とも呼ばれていた。 筑後川という名称が最終的に本流の名称として統一されたのは1636年(寛永13年)のことである。 最も古い文献に見られる千歳川・千年川であるが、鎌倉時代に編纂された夫木和歌抄の第24に収載された和歌にその名称が記され、江戸時代には『歌枕名寄』や『米藩(久留米藩)詩文選』にも詩歌に記されていた。 文明・天保年間に青柳種麿が著した『筑前続風土記拾遺』には「千年川は古名也」と記されており、筑後川が正式名称と決定した後も地元住民の間では別名として定着していたとされている。 一夜川については室町時代にその名称が初見されるが、この名称については後述する筑後川開発史にもあるように「洪水によって一夜にして豊穣な土地が荒地に変化する」という古くからの伝承によるものとされている。筑間川については江戸時代初期に筑前国と筑後国の中間を流れていたのが由来とされている。 筑後川という名称が正式名称となった経緯であるが、これには久留米藩の資料である『米府年表』と『石原家記』にその内容が記されている。 すなわち1636年に江戸幕府の命によって河川の名称を筑後川に統一せよという幕命が老中を通じて下った。ところが島原の乱が発生し久留米藩のみならず関係する福岡藩や佐賀藩、柳河藩も出陣命令が下ったので一旦保留となった。 乱の鎮圧後1638年(寛永15年)に改めて老中の命を受けた上使、松平若狭守と安藤但馬守が久留米藩重臣である有馬主水に「筑後川」の名称を使うよう通達したと記されている。 なお、この間に経緯について伝承がある。それは福岡藩家老と久留米藩家老が老中の列席する中で河川名の評定をしていた時、老中が「この川の名前はどのようにするか」と福岡藩家老に尋ねた所、件の家老は突然尋ねられたことから「筑前川」と答える所を口を滑らせて「あの筑後川は…」と答えてしまい、老中が「では筑後川に決める」と決定したというような内容である。 以上の経緯から、江戸幕府の命により1636年に筑後川に名称を統一する沙汰が下り、島原の乱終結後正式に決定したのである。しかしこの名称は筑前・筑後・肥前三国の国境を流れる河川に付けられた名称であり、上流である豊後国内では呼ばれなかった。
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時代による変遷
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囲碁の歴史の初期にはあらかじめ星の位置に石を置いて対局を始める事前置き石制であったのが、盤上に何も無い状態から打ち始める自由布石法となることによって、隅への着点として小目が発生した。日本の室町時代後期から江戸時代、明治時代にかけては、小目が布石の主流となり、その周辺での戦いの技法も進歩し、多くの定石が生まれた。また小目から発生する布石として、本法の布石、秀策流などが打たれるようになった。その後昭和になって新布石の登場などにより、布石は星と小目の組み合わせが主流となった。
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