昭和前期の七夕改革論
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大正期の町営七夕が挫折し、時代が昭和に移り変わってからも、引き続き七夕を巡る様々な悪習の問題が横たわり、改革の必要性が指摘されることとなった。この時期における悪習の原因は、一概に七夕固有の問題にあるともいえず、昭和恐慌期に入って労働者階級の困窮が進んだことで七夕がその鬱屈のはけ口となり、階級闘争的な性格が持ち込まれたこともその一因であったと考えられる。1936年(昭和11年)に地元紙の北羽新報が「七夕論是非」というテーマで町内の有力者にインタビューを試み、そこでは弊害が大きいなら廃止すべきと言った強硬な意見をも含めて様々な意見が述べられているが、それでも七夕行事に歴史的な意義があり、民間信仰的・習俗的な価値を認めることでは見解が一致していた。廃止論・改善論の焦点は、あくまで寄附の強要問題や飲食による濫費、七夕灯籠運行が深更に及ぶことによる風紀上の問題に当てられていたのである。 1940年(昭和15年)、能代港町が周辺の2村(榊村、東雲村)と合併し、新たに能代市が発足したが、時局は戦争に向かうさなかであり、七夕は数年来の中断を余儀なくされた。戦後復活したのは1946年(昭和21年)のことである。戦前まで七夕行事は旧暦の7月1日から7日にかけて行われていたが、戦後に新暦8月1日から7日に行うよう日程が改められた。また、従来の町組による枠組みにとらわれない試みとして、初めて事業所からの七夕も出た。当時は戦災復興で木材景気が良く、一方で物価の上昇が激しかったため、儲けを税金で取られるよりは七夕で使ってしまおうとの意識があったことによる所産である。七夕の再開は市民に大きな希望を与え、また戦後の世相を反映した変化も取り入れられることとなったが、七夕灯籠の経費負担はやはり各家庭にとって大きな負担であり、早くも七夕改革論が再浮上することになる。昭和20年代の特徴として、戦後の女性の社会的地位の向上を背景として婦人会などから寄附の強要の排除を求める声が寄せられたことが挙げられ、また戦前まで高位の役職者は家柄も加味されて選定されていたが、これを排して民主的な運営が求められるようになっていった。
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