日本近海での作戦行動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 04:17 UTC 版)
「サウスダコタ (戦艦)」の記事における「日本近海での作戦行動」の解説
サウスダコタが所属する高速空母部隊は2月17日に東京に対して攻撃を行い、2月19日および20日には硫黄島への上陸部隊の支援を行った。2月25日に再び東京への攻撃を行い、3月1日に沖縄での攻撃を行った。ウルシー環礁で弾薬補給を行った後、任務群は日本本土へ向かい、3月18日および19日には神戸、呉、九州地区への攻撃を行った。3月23日、24日には沖縄に対して攻撃を行い、サウスダコタは艦砲射撃グループに加わり沖縄南東へ砲撃を行った。その後任務群に再合流し沖縄への砲撃、九州南部の飛行場への攻撃を3月29日、31日から4月3日まで行った。4月7日に空母部隊(第58任務部隊)は九州南西部で日本艦隊への攻撃を行った。戦艦大和は航空攻撃で撃沈され、サウスダコタ含めアメリカ戦艦部隊は砲戦の機会を失った。サウスダコタは4月19日に再び沖縄南東に対する艦砲射撃に参加し、日本と対峙する XXIV 軍の支援を行った。 5月6日、ランゲル(USS Wrangell, AE-12)からの補給中に16インチ主砲装薬庫の爆発事故を生じ、火災と共に装薬庫4室が爆発した。二番両用砲は氾濫し火災は鎮火した。3名が即死し、8名が負傷のため死亡、24名が負傷した。サウスダコタは5月11日から29日までグアムに後退し、その後レイテ島に6月1日到着した。 サウスダコタはレイテ島を1945年7月1日に出航し、7月10日に東京空襲を行う第38.1任務群の護衛を行った。7月14日、岩手県釜石市の釜石製鉄所に対する砲撃(釜石艦砲射撃)を実施した。これはアメリカ戦艦による日本本土に対する初の砲撃であった。7月29日および30日の夜には静岡県浜松市への砲撃を行い、8月9日には再び釜石を砲撃している。8月10日には本州北部への空襲を行う空母部隊の護衛を、8月13日と15日には東京空襲部隊の護衛を行っている。15日の攻撃は第二次世界大戦における最後の攻撃で、同日日本は降伏した。 サウスダコタは8月27日に相模湾に停泊し、8月29日に東京湾に入った。9月20日に東京湾を出航し、沖縄、真珠湾経由でアメリカ西海岸へ帰還した。10月29日にサンフランシスコからサンペドロ湾へ移動した。1946年1月8日に西海岸を出航、オーバーホールのためフィラデルフィアへ向かった。6月に大西洋予備役艦隊入りし、1947年1月31日に予備役となった。1962年6月1日に除籍されるまでそのままの状態で保管される。1962年10月25日にサウスダコタはルリア・ブラザース・アンド・カンパニー有限会社にスクラップとして売却された。 サウスダコタは第二次世界大戦の戦功により13個の従軍星章を受章した。
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