文学性豊かな『桐一葉』
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逍遥の手になる台詞は、それまでの歌舞伎の科白と違い、難解な語句を多用しながらも芸術性豊かな出来で、この劇の品格を高めている。最も有名なのが、「長柄堤」の且元、重成の悲痛な台詞・前述の第6幕第1場における且元の「我が名に因む庭前の」の独白、第2幕第3場の淀君の長台詞である。それは 咲き乱れたる 山百合の、あの絵襖を 見るにつけ、 思いぞいずる 過来しかた、所も加賀の 白山なる、 千蛇が池の 名産と、世に聞こえたる 黒百合の、 その花くらべ が原となり、北政所の 憎しみ受け、 はかなく滅びし 佐々成政。いでそのころは 自らが、 盛りの花や 春深き、聚楽殿の 栄華の夢、 我ひとたび 笑むときは、布衣より出でて 天が下、 六十余州を 掌握ありし、あの太閤とて 何の英雄。 栄えときめく 諸大名も、皆みずからを 憚りの、 関とざさねど 豊臣の、世は泰平と 思いのほか、 さんぬる三年の 秋の風、頼みに思いし 治部少輔も、 小西と共に 木枯らしの、荒れすさびゆく 木の下かげ。 という格調高い美文調のもので、五代目中村歌右衛門の十八番であった。 内田魯庵は『桐一葉』の発表が革命的なものであったとし、 「坪内君が『桐一葉』を書いた時は、團十郎が羅馬法王で、桜痴居士が大宰相で、黙阿弥劇が憲法となっている大専制国であった。この間に立って論難攻撃したり新脚本を書いたりするのは、ルーテルが法王の御教書を焼くと同一の勇気を要する。…何百年間封鎖して余人の近づくを許さなかったランド・オブ・カブキの関門を開いた」(『中央公論・逍遥号』明治44年) と評している。それまで、座付の狂言作者の脚本しか上演されなかった(明治32年に松居松翁作の『悪源太』が上演されたのを例外として)閉鎖的な歌舞伎界に、近代の風を通す大きな穴を開けたのである。以降、岡鬼太郎・岡本綺堂・小山内薫・池田大伍・真山青果・舟橋聖一・谷崎潤一郎など外部からの新作歌舞伎が多く作られることになる。 なお、『桐一葉』はシェイクスピア作品を一つの手本としているため、その影響が随所に見られる。且元の性格は『ハムレット』のハムレットに、蜻蛉はオフィーリアに類似し、銀之丞は『リア王』のリア王、その死はオフィーリア水死の場を彷彿とさせる。また淀君が珍伯を殺害する場には『ハムレット』のポローニアス宰相殺害の場の影響が、その淀君の性格は『マクベス』のマクベス夫人のそれの影響を見逃せない。しかし一方で、美文調の台詞まわしや浄瑠璃は近松門左衛門から連綿と続く伝統歌舞伎そのもので、逍遥が近松と沙翁(シェイクスピア)という東西の戯曲家を意識してこの作品を仕上げたことが伺われる。
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