政界へもたらした影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:40 UTC 版)
「池田勇人内閣の政策」の記事における「政界へもたらした影響」の解説
池田の登場によって、思想を基に激しく対立する「政治の季節」は終わりを告げ、社会党の党勢に急ブレーキがかかった。岸倒閣直後は、反米ナショナリズムや反・逆コースの勢いに乗って政権を奪取するべく手くずねを引いていたが、池田が憲法改正の"カ"の字も言わず、声高に訴えた「所得倍増」「月給倍増」などは、それまで社会党や左派系知識人が得意としていた思想やイデオロギーとはほど遠かった。池田が唱えた「低姿勢」、「寛容」という語は、60年安保の後のとげとげしい空気のもとで一種の癒しの語として人々に受け入れられた。 社会党から見れば、せっかく盛り上がった反岸のエネルギーが、池田によってなだめられる形になり、社会党そのものへの期待がしぼんでいく焦りがあった。 池田の「所得倍増計画」に煽られ、社会党も経済成長政策を出したが、勝間田清一は「そういう状況の中で社会党の闘いの仕方が全く未成熟で、未検討であって、これが社会党停滞の原因」、高橋正雄は「口では反対反対といいながら、自民党より高い成長率を主張したことが社会党の低落の原因」と述べている。俵孝太郎は「池田から経済を学んだ私たち今までにはなかった若い政治記者が、古い考えしかできない社会党を見放す気分が育っていた」などと述べている。 経済成長が成功を収めているときの闘い方は社会党は不得手だった。社会党は、池田自民党の変貌とその鮮やかな演出手腕に全く対応できなかったのである。社会主義にしかできないと思われていた貧困の克服が資本主義のままで進んだため、社会党の存在そのものが問われる事態となった。池田政策に対する一つの対応として1962年に江田三郎が構造改革論「江田ビジョン」を発表。これは社会主義的あるいは共産主義的に計画経済を発展させるという考えを含んでいたが、社会党内部での派閥抗争の材料となり、社会党は長期停滞に追い込まれていった。 政治的対立を打ち出さない池田の基本的姿勢は、55年体制の特質ともいえる自民党と社会党の「競演による共演体制」を作り上げた。自民党は池田以降、時に対決姿勢を示しつつも、社会党の言い分を取り入れながら国会を運営していく。社会党は自身の存立基盤であるイデオロギーをめぐる党内抗争を続け、「所得倍増計画」の重要な施策だった「全国総合開発計画」(全総)や「農業基本法」などで、農村から都市への人口移動により支持基盤となるべき労働者階級が増加したにもかかわらず、彼らの存在を党勢拡大に活かすことが出来なかった。 彼らの支持を手堅く固めたのは創価学会で、後に公明党として政界進出することによって野党の多党化はますます進み、政権交代の可能性はますます遠のいた。結果自民党の基盤は強くなり、党内での権力闘争に専心できるようになった。池田に始まる「保守本流」の確立と、自民党の「社会党包括」は、後の自社さ連立政権樹立まで地下水脈でつながっていく。結局、社会党が自民党を議席数で上回ることは一度もなかった。
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