政界への道のり
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1972年6月24日に警察庁長官を辞任。同年7月、1972年自由民主党総裁選挙に勝利した田中角栄に抜擢され、第1次田中角栄内閣の内閣官房副長官(事務)に就任。田中の懐刀として辣腕を揮った。 国土庁の設立が構想された際にその初代長官となるよう田中から打診されたが、後藤田は民間人閣僚となることを潔しとせず断っている。後藤田は山下元利からの誘いもあって同年末に行われた第33回衆議院議員総選挙への出馬を希望していたが、「この内閣は、君で持っているのだ。選挙戦で官邸がカラになったら、内閣は潰れてしまう」と田中に慰留され、また選挙への準備不足も指摘されたことから断念した。 1973年4月に田中が小選挙区制の導入をぶち上げ、同年5月12日に後藤田は区割り委員会の事務局長に据えられる。しかし、根回しなく公表されたこのいわゆる「カクマンダー」構想は野党はおろか党内からも猛反発を招き、撤回された。 後藤田は1973年11月25日に官房副長官を辞職し、郷里の徳島県から参議院選挙に出馬するための準備を始める。しかし、徳島県は三木派を率いる三木武夫(当時副総理)のお膝元であり、しかも1人区である徳島県選挙区では三木派の城代家老と言われた久次米健太郎が現職であったことから、自民党公認を巡って党内が紛糾する。結局徳島県連の投票により後藤田が公認候補とされたが、三木派の猛反発を招いた。久次米は無所属で立候補したため、県内で保守が真っ二つとなり、選挙戦は阿波戦争(三角代理戦争)と呼ばれる熾烈なものとなった。 当初は財界と党主流派の支援を受けた後藤田が有利と見られていた。しかし、農協などとの強い関係を持つ久次米陣営が猛烈に巻き返し、1974年7月7日の第10回参議院議員通常選挙の結果は、久次米19万6210票に対し後藤田15万3388票で及ばず、敗北した。さらに、後藤田が選挙に不慣れであったこともあって、陣営から268人もが徳島県警察によって選挙違反で検挙されることとなり、「金権腐敗選挙」と強く非難される憂き目を見た。後藤田はお詫び行脚に奔走するとともに、私財を売り払って逮捕者に弁護士を手配した。後に後藤田は、「あの選挙は自分の人生の最大の汚点」と述べている。更に強力な後ろ盾であった田中角栄も田中金脈問題をきっかけに首相を辞任し、選挙戦を通じて政敵となった三木が後継総裁に選出され、後藤田にとっては雌伏を余儀なくされる事態が続いた。一方で後藤田は、このときの落選と家族らとともに続けてきたその後の地道な選挙活動で、自分自身の世の中を見る目に甘さがあることに気づき、自分が変わるきっかけになったと述べている。 1976年の第34回衆議院議員総選挙に徳島県全県区(当時)から立候補し、ときの内閣総理大臣である三木武夫との直接対決となった。ロッキード事件に絡めたネガティブ・キャンペーンも受けたが(久保発言)、落選以来後藤田が「徹底して歩け」との田中の指示どおりに地道に続けてきた地元への行脚が功を奏し、6万8990票を獲得して三木に続く2位当選を果たした。一方で、前回の参院選挙で後藤田を支援してくれた秋田大助と少年期に寝食を共にした兄弟同然である甥の井上普方(社会党)が、最後の1議席を巡って5位争いをすることとなり、気まずい選挙でもあった(結果は、秋田が落選)。 当選後は自民党田中派に所属。選挙の勉強も兼ねて総務局次長として東京都議会選挙の指導を任された。
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