戦後の再出発
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1945年、戦後の短編映画第1作として、治安維持法違反によって獄中にした人々の解放を捉えたニュース映画『君達は喋ることが出来る』を製作。同年、『戦災者の声』、『明日の婦人達』、労働歌をテーマとしたプロパガンダ映画『腕をくんで』などを製作するも、いずれも、左翼的すぎて映画館に受け入れられなかったため、一旦解散する。同年12月、従業員の反対と占領軍の命令で解散を取り止め、再発足。12月1日に発足した「映画製作者連合会」に劇映画3社、ニュース短篇教育映画3社とともに加盟。 1946年3月、朝日新聞・毎日新聞・読売新聞から役員を迎えて入れて増資を行う。製作局長に統合した芸術映画社の元社長・大村英之助が就任。同月には、「新世界ニュース」を製作した。従業員数270名の大所帯であるため、経営が改善せず、9月に大村英之助は退任。この頃、池真理子、渡辺はま子、柴田つる子、松原操ら歌手が総出演する演芸映画『麗人歌合戦』(20分・35mm・白黒)を製作。
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戦後の再出発
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「京都大学人文科学研究所」の記事における「戦後の再出発」の解説
1945年の敗戦に伴いドイツ文化研究所は西洋文化研究所と改称された。1946年9月には(旧)人文科学研究所と西洋文化研究所を改組し、さらに東方文化研究所と併合する形で、新しい人文科学研究所(新・人文研)が誕生し、所長には安部健夫が就任した。新・人文研は、前身機関の組織を再編して「日本部」(主任・柏祐賢)・「東方部」(主任・貝塚茂樹)・「西洋部」(主任・桑原武夫)の3部門から構成されることとなり、発足当初には以下のような共同研究が行われた。 日本部日本の近代化(班長(以下同)、柏祐賢) 東方部東京夢華録の校註翻訳(入矢義高) 清朝の文献、特に地誌による中国慣行の蒐集(清水盛光) 中国技術史(薮内清) 仏教芸術の研究(水野清一) 中国古典の校註と索引編纂(平岡武夫) 清代奏疏中の社会経済資料の集成 雍正硃批諭旨の研究(安部健夫) 資治通鑑唐紀の研究(貝塚茂樹) 西洋部ルソー研究(桑原武夫) 1969年11月15日、京都府警察は人文科学研究所の研究室などを放火容疑で家宅捜索。学園紛争の中で同月7日、文学部新館第一講義室が放火された事件に関連したもの。ヘルメット5個、ビラなどが押収された。
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