山根真治郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/22 23:54 UTC 版)
山根 真治郎(やまね しんじろう、1884年〈明治17年〉9月 - 1952年〈昭和27年〉7月10日[1])は、日本のジャーナリスト。『国民新聞』、『東京新聞』などで、記者、編集者として活動し、日本最初の本学的なジャーナリスト教育組織としての新聞学院(1932年 - 1942年)を創設して学院長を務めた。
- ^ “山根真治郎氏(訃報)”. 朝日新聞・夕刊: p. 3. (1952年7月10日) - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
- ^ a b c d e f g “新聞学院『年報』復刻版 山根真治郎 略年譜” (PDF). 不二出版. 2015年6月19日閲覧。
- ^ a b 山根芳美 (2011年11月29日). “緑地帯 新聞人二代の絆 3”. 中国新聞 2015年6月18日閲覧。
- ^ 山根芳美 (2011年11月29日). “緑地帯 新聞人二代の絆 4”. 中国新聞 2015年6月18日閲覧。
- ^ 山根の名は、没後に追加されたものともいう。:“回向院”. 大相撲評論家之頁/坪田敦緒. 2015年6月18日閲覧。 “大正 5年 5月に初代梅ヶ谷の通称「大雷」が、「相撲道を斯くまで隆盛ならしめたのは全く筆の力である」として相撲記者の慰霊のために建てたもの...刻まれているのは以下の39人で、刻まれているままに紹介すると、以下の通りである。...国民 山根真治郎...このうち石川周行までは建立当時に刻まれていた者で、以後は「物故の都度彫り込まれたもの」(加藤成穆 同上)ともいう” - 引用中の「加藤成穆 同上」は、加藤成穆「思ひ出るまゝに(二十五)相撲記者四十年の感懐」(「野球界」昭和16年12月第二号、野球界社。
- ^ 春原昭彦. “推薦します 山根真治郎『学報』復刻版の意義” (PDF). 不二出版. 2015年6月19日閲覧。
- ^ 1933年6月7日には、春秋会、日本新聞協会、廿一日会の共済により、中外商業新報前社長の簗田きゅう次郎(「きゅう」は、 「金」に「久」)、時事新報前編集局長の伊藤正徳と、国民新聞前副社長の山根が「新聞界を去れるに対し惜別の意を表する宴」が開催されたが、山根は欠席している。:“簗田、伊藤、山根 三氏の惜別宴”. 朝日新聞・朝刊: p. 11. (1933年6月8日) - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
- ^ 結婚当時、海軍の軍務に就いていた山根康治郎は、戦後は中日新聞で活躍した。:山根芳美 (2011年11月29日). “緑地帯 新聞人二代の絆 7”. 中国新聞 2015年6月18日閲覧。
- ^ 『国政選挙総覧 1947-2016』540頁。
- ^ 山根真治郎「第六章 示唆と風説」『誤報とその責任』日本新聞協会附属新聞学院、19381、117-127頁。 近代デジタルライブラリー (69-75コマ)
- ^ “[検証・戦争責任](11) メディア 「言論」忘れ戦況伝えず国民鼓舞(連載)”. 読売新聞・東京朝刊: p. 3. (2006年3月3日) - ヨミダス歴史館にて閲覧
- ^ “(新聞と戦争)戦後の再出発:2”. 朝日新聞・夕刊: p. 3. (2008年3月13日). "東京新聞の編集局長などを務めた山根真治郎は、軍官による言論統制や用紙統制、右翼の襲撃などを挙げて、新聞に責任はないと言い切った。いたずらに総懺悔(ざんげ)的な反省をするより、真に責任のある者たちを追及することこそ大事だとの論である(「日本新聞報」45年12月3、6日)。" - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
- 1 山根真治郎とは
- 2 山根真治郎の概要
- 3 脚注
- 山根真治郎のページへのリンク