後三年の役と惣領家の消滅
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「出羽清原氏」の記事における「後三年の役と惣領家の消滅」の解説
武則の跡を子武貞が継ぎ、さらにその子真衡が継いだ。真衡は延久蝦夷合戦で活躍し鎮守府将軍となった貞衡と同一人物とする説がある。 治暦3年(1067年)には、源満仲の次男・源頼親の孫・源頼俊が陸奥守として赴任した。頼俊は源義家とライバル関係にあった。『百錬抄』康平7年3月29日条によれば、治暦3年には、源頼義の伊予守任了に際し、同国に抑留されていた安倍宗任と安倍家任の2人が陸奥国への帰国の願いを断たれ、大宰府に再移配されている(安倍正任と安倍則任は陸奥国への帰国が叶ったか)。頼義は安倍氏嫡流である宗任を傀儡として利用する野心があったとされ、大宰府への再移配によってそれが水泡に帰してしまったが、それと同時に頼俊が陸奥守に任じられたのは、単なる偶然ではなく、頼義や義家の奥羽への野心を朝廷に警戒されたと考えられる。頼俊は奥羽の住人に対する態度や振る舞いは頼義・義家親子とはかなり異なっており、陸奥守としても鎮守府将軍の武則との関係も融和的だった。また、頼俊は清原氏と海道平氏をとりわけ重く用い、それゆえ共に国守の下で国府や鎮守府在庁官人を統率・指揮する両氏は互いに政治的結束を高めた。 真衡は、棟梁の権限を強め、平氏の岩城氏から養子を取って後継者(成衡)とし、さらにその妻に源頼義の娘を迎えた。 真衡はこうして武家としての清原氏を確立させようとしたが、その過程で一族の長老吉彦秀武や異父異母弟清衡(藤原経清の遺児。母親が清原氏に嫁したため養子となる)、異母弟家衡(武貞と清衡母のあいだの子)と対立し、その鎮圧戦の最中に急死した。源義家の調停により遺領は2人の弟が分け合うこととなったが、この条件を不服として家衡が清衡を攻撃、出羽国沼ノ柵では清衡側としてこの紛争に介入した源義家軍を破った。家衡の叔父にあたる武衡は家衡の戦勝を聞きつけてこれに与力し、出羽国金沢柵の戦いでは籠城戦を戦ったものの清衡を応援した義家軍により滅ぼされた。この一連の内紛を後三年の役といい、勝利した清衡は奥州の覇権を握り、摂関家に届け出て実父藤原経清の姓藤原を名乗るに至り、清原氏惣領家は滅亡した。 『吾妻鏡』には、奥州合戦の後、源頼朝の呼び出しに応じた清原姓の古老の存在が記されているが、出羽清原氏との関係は不明である。
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