後三年の役と惣領家の消滅とは? わかりやすく解説

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後三年の役と惣領家の消滅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 21:04 UTC 版)

出羽清原氏」の記事における「後三年の役と惣領家の消滅」の解説

武則の跡を子武貞が継ぎ、さらにその子真衡が継いだ。真衡は延久蝦夷合戦活躍し鎮守府将軍となった貞衡と同一人物とする説がある。 治暦3年1067年)には、源満仲次男源頼親の孫・源頼俊陸奥守として赴任した。頼俊は源義家ライバル関係にあった。『百錬抄康平7年3月29日によれば治暦3年には、源頼義伊予守任了に際し同国抑留されていた安倍宗任安倍家任2人陸奥国への帰国願い断たれ大宰府に再移配されている(安倍正任安倍則任陸奥国への帰国叶ったか)。頼義は安倍氏嫡流である宗任を傀儡として利用する野心があったとされ、大宰府への再移配によってそれが水泡に帰してしまったが、それと同時に頼俊が陸奥守任じられたのは、単なる偶然ではなく、頼義や義家奥羽への野心朝廷警戒されたと考えられる。頼俊は奥羽住人対す態度振る舞いは頼義・義親子とはかなり異なっており、陸奥守としても鎮守府将軍武則との関係も融和的だった。また、頼俊は清原氏海道平氏とりわけ重く用いそれゆえ共に国守の下で国府鎮守府在庁官人統率指揮する両氏互いに政治的結束高めた。 真衡は、棟梁権限強め平氏岩城氏から養子取って後継者(成衡)とし、さらにその妻に源頼義の娘を迎えた。 真衡はこうして武家として清原氏確立させようとしたが、その過程一族の長吉彦秀武異父異母弟清衡(藤原経清遺児母親清原氏嫁したため養子となる)、異母弟家衡(武貞と清衡母のあいだの子)と対立し、その鎮圧戦の最中急死した源義家調停により遺領2人の弟が分け合うこととなったが、この条件不服として家衡が清衡を攻撃出羽国沼ノ柵では清衡側としてこの紛争介入した源義家軍を破った。家衡の叔父にあたる武衡は家衡の戦勝聞きつけてこれに与力し、出羽国金沢柵戦いで籠城戦戦ったものの清衡を応援した義家軍により滅ぼされた。この一連の内紛後三年の役といい、勝利した清衡は奥州覇権握り摂関家届け出て実父藤原経清の姓藤原名乗る至り清原氏惣領家滅亡した『吾妻鏡』には、奥州合戦の後、源頼朝呼び出し応じた清原姓の古老存在記されているが、出羽清原氏との関係は不明である。

※この「後三年の役と惣領家の消滅」の解説は、「出羽清原氏」の解説の一部です。
「後三年の役と惣領家の消滅」を含む「出羽清原氏」の記事については、「出羽清原氏」の概要を参照ください。

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