弾琴台の戦いとは? わかりやすく解説

忠州の戦い

(弾琴台の戦い から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/12 04:42 UTC 版)

忠州の戦い(ちゅうしゅうのたたかい、朝鮮語読み:忠州はチュンジュ)は、文禄元年(1592年)4月28日、忠州市付近の弾琴台(朝鮮語読み:タングムデ)で戦われた文禄・慶長の役初期の戦闘の一つである。具体的な戦場の地名を取って「弾琴台の戦い」とも言う。


注釈

  1. ^ a b c 『宣祖修正實録』による。柳成龍が募った8,000と軍官80人からなる金汝の先発隊[1]、数千名の弓兵からなる申砬の後発隊は、道中で収容した邑兵8,000[2]を加え、尚州で破れた李鎰は残兵に志願者や農民、避難民から兵を募って6,000とした[3]。この合計。
  2. ^ 『象村集』によると申砬の兵は数千[4]。李鎰の軍勢については、尚州の戦いの前に4,060とあるが、敗北後の敗残兵の数は記載ない。これは『宣祖修正實録』にある6,000の記載が『象村集』にはない[5]
  3. ^ 『懲毖録』には忠清道郡県兵8,000名とあるのみ[6]
  4. ^ 『小西一行記』では、申砬が漢城から率いてきたのが兵37,500で、京畿道からの指令で先に忠清道に集ったのが兵12500とされる。(ただしこの書籍は小西行長を主人公とする軍記物である。)
  5. ^ 『乱中雑録』ではこのうち申砬が率いる精兵は2,000だけで、一族が100、すべて合わせて6万とする[8][9]
  6. ^ a b 太閤記 巻13 忠州城之事』では「軍勢六七万」。ただし太閤記では戦いの内容が全く異なり、朝鮮軍が籠城して戦ったことになっている。
  7. ^ 『宣祖実録』によると精兵10万人と云い、これが完敗したとある[11]。また、壮士3,000人が一日で集まったという記述もある[12][13]
  8. ^ a b ルイス・フロイスの『日本史』では、そもそも朝鮮軍は8万であるとされ、戦いでも小西行長の日本軍が少数である事を見て、三日月型の陣形を敷き、包囲しようとしてきたように書かれていて、内容や状況がかなり異なる。朝鮮側の死傷者の数も8,000人以上とされたが、それは1割に過ぎない。
  9. ^ 前述のように宣祖修正実録の同じ日の記述に 柳成龍が集めた壮士の8,000人を申砬らは率いて漢城から出陣していった。[15][1]
  10. ^ 前義州牧使であるが、党派争いに連座して逮捕され、その職を追われた。しかし優秀で勇敢であるというので、倭乱が起きた際に再雇用され、副使となった。献言が無視されて次のいくさは必敗であると考えた金汝岉は、子供に一筆残して死を覚悟してこの一戦に臨んだ。
  11. ^ 北方の蛮族、遊牧民をのこと意味し、ここでは女真族を指す。
  12. ^ 別の宣教師が記した『日本西教史』でも、朝鮮の騎兵や湾月形の陣形などが登場するが、こちらは加藤清正と小西行長の争いによって、足を引っ張られたという内容になっている[22]
  13. ^ 総兵官の略で、将軍または大将の意味。

出典

  1. ^ a b c
    臺諫啓請:“宜使大臣爲體察使, 檢督諸將。” 李山海請遣柳成龍, 從之。 金應南爲副使。 成龍問策於申砬, 砬曰: “李鎰以孤軍南下, 而無後繼。 體察使雖下去, 非戰將, 宜使武將星馳先往, 爲鎰後繼。” 成龍乃與應南請對, 請先遣申砬。 上召問砬, 砬亦不辭, 遂以爲都巡邊使。 成龍卽以所募壯士八千人, 屬砬行。 將發, 上引見砬, 賜寶劍曰: “李鎰以下不用命者, 皆斬之。” 時, 上以金汝岉才勇可惜, 命於防禦緊要處定配, 立功自效。 汝岉出獄, 成龍召與計事大奇之, 啓曰: “臣今始見汝岉論兵事, 不但武勇、才略過人, 請置幕中, 資其籌策。” 上許之。 砬又請: “臣曾鎭西路, 知汝岉非但才勇, 乃忠義之士。 請付臣先行。” 上又從之。砬又請: “臣曾鎭西路, 知汝岉非但才勇, 乃忠義之士。 請付臣先行。” 上又從之。 — 宣祖修正實録 26卷, 25年(1592 壬辰 / 萬暦 20年) 4月 14日(癸卯) 6
  2. ^
    砬所將, 都中武士、材官, 竝外司庶流、閑良人能射者數千人。 令朝官各出戰馬一匹助之行, 收旁邑兵, 僅八千人。 — 宣祖修正實録26卷, 25年(1592 壬辰 / 萬暦 20年) 4月 14日(癸卯) 6
  3. ^
    吉願自出招集, 乃達夜搜索村落間, 得數百人, 皆農民也。 鎰又發倉廩, 誘募散民, 得數百人, 倉卒徧伍, 合兵僅六千餘人 — 宣修 26卷, 25年(1592 壬辰 / 萬暦 20年) 4月 14日(癸卯)
  4. ^ 申砬は丹月驛に数千人で陣をしいた[1]
    又以申砬爲都巡邊使。益發都中武士材官。幷抄三醫司閑良人能射者皆屬焉。令朝官各出戰馬一匹以助之。發武庫軍器以資之。發武庫軍器以資之。時徵諸道兵未至。砬驟往。只將傍邑兵。四月二十六日至忠州。兵纔數千人。陣於丹月驛傍岸。 — 象村集稿卷之三十八 諸將士難初陷敗志
  5. ^
    巡邊使李鎰之出師。只率軍官及射手六十餘人。行收兵得四千餘人。四月二十四日至尙州。鎰以士卒烏合。當習陣以待之。布陣未半。賊猝至。因與對陣。未及交鋒。賊先放砲。鐵丸雨下。我軍不能抵敵。賊大呼陷陣。我師犇潰。死者相枕籍。鎰單騎脫身走。從事官尹暹,朴篪皆沒。朝廷旣遣李鎰。未久邊報日急。云賊已迫內地。將踰鳥嶺。都人洶洶。荷擔而立。 — 象村集稿卷之三十八 諸將士難初陷敗志
  6. ^
    砬至忠州, 忠淸道郡縣兵來會者八千餘人 — 懲毖録
  7. ^ a b 『西征日記』より
  8. ^ 乱中雑録,壬辰上萬暦二十年。宣祖二十五年
  9. ^
    申砬盡率諸道精兵及武官二千,宗族百餘員,內侍衛卒幷六萬餘兵。自鳥嶺還退忠州。 — 乱中雑録, 壬辰上 萬暦二十年。宣祖二十五年
  10. ^ 完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇Ⅱ 『暴君』秀吉の野望」第38章
  11. ^ a b
    變初, 以申砬爲都巡察使, 領大軍, 禦賊于鳥嶺。 砬不爲據險把截之計, 迎入於平原廣野, 左右彌滿, 曾未交鋒, 而十萬精兵, 一敗塗地。 遂使京城不守, 乘輿播越, 痛哉 — 宣祖実録
  12. ^ 宣祖 65卷,28年(1595乙未/萬暦23年)7月24日(乙未)
  13. ^
    變初, 嶺南之人, 顒望王師, 有如失母之赤子, 列郡之卒, 無所統屬, 及李鎰來到尙州, 發倉粟而饗士, 出誠言而曉諭, 一日之間, 得壯士三千人。 — 宣祖 65卷, 28年(1595 乙未 / 萬暦 23年) 7月 24日(乙未)
  14. ^ 『対馬国記』(宗氏による書籍)による。
  15. ^ 宣修26卷,25年(1592壬辰/萬暦20年)4月14日(癸卯)
  16. ^ 宣祖修正實録 二十五年(1592年)、二十五年 四月、宣祖修正25年4月14日
  17. ^ a b
    砬不知所爲, 直鞭馬進向州城, 軍不成列, 稍稍散匿。 城中賊發角三聲, 一時出擊, 砬衆大潰, 而賊已四圍, 砬還趨結陣處, 人爭投水, 流屍蔽江。 砬與汝岉馳射殺賊數十人後, 皆赴水死。 砬有姊子從行欲走免, 砬怒曰: “汝何生爲?” 捽頭同溺焉。 壯士脫免者數三人。 — 宣祖修正實録 二十五年(1592年)、二十五年 四月、宣祖修正25年4月14日
  18. ^ 宣祖實録宣祖25年4月30日
  19. ^ a b
    國初, 有僧人無學讖記, 歷言國家事, 壬辰年則曰: “缶聳雲根, 潭空月影, 有無何處去, 無有何處來” 云云。 自戊子己丑年間, 行于世, 至壬辰盛行, 人莫能解其語。及倭寇卒至, 朝廷遣巡邊使申砬禦之, 砬到忠州敗軍, 全軍更沒於月落灘。 所謂岳卽維缶降申也, 聳立也, 雲根石也。 潭空月影, 卽月落灘溺死之言也。 — 宣祖實録宣祖25年4月30日
  20. ^ 柳 & 長野 1921, pp.36-39
  21. ^ 朝鮮史編修会 1937, p.440
  22. ^ 徳富 1935, p.394
  23. ^ 朝鮮史編修会 1937, p.441
  24. ^ 徳富 1935, p.377


「忠州の戦い」の続きの解説一覧

弾琴台の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 04:12 UTC 版)

忠州の戦い」の記事における「弾琴台の戦い」の解説

4月27日夕方親しくしていた軍官日本軍はすでに嶺を越えたという情報密かに知らせた申砬はこれを聞く突如として一人で城を遁走行方不明となった軍中騒然としたが、彼は深夜黙って帰還した翌朝軍官妄言放ったとしてこの人物を斬り、彼は日本軍はまだ尚州城を出ていないと朝廷報告した。しかし実際に日本軍はすでに僅か十里先で野営していたのであった。 同じ4月28日早朝申砬敵情得ぬまま忠州城を出て北西弾琴台に陣をしいた。ここは北は漢江面し、西にはその支流達川があって、前面には水田広がり背後は(河岸の)断崖絶壁で、新羅時代土城跡のある小丘陵だった。所謂背水の陣であり、逃げ場はなかった。 小西行長斥候派してこれを発見。軍を三つにわけて三方向より攻撃する作戦立てた行長中央松浦鎮信右翼は、山沿いに東に進み宗義智左翼達川を下るように北上三方包囲して一斉に銃撃仕掛けた申砬弓矢応戦したが、数千挺の火縄銃による一斉射撃によって敵をなぎ倒すという日本軍戦術十分に把握していなかった。弓隊は混乱して敗走申砬劣勢挽回しようと二度突撃行ったが、いずれも撃退された。為すすべなく軍が大潰走するに至って申砬は自ら馬に鞭打って川に飛び込み水中没して自殺した朝鮮兵は蹴散らされ逃げ惑って漢江死体埋め尽くされた。宗張とその息子李希立、金汝岉、邊璣ら諸将乱戦の中で戦死鎰は東の山間逃げ込んで辛くも脱出し敗報知らせた日本軍はさらに追撃して、3千余の首級挙げ数百捕虜得た朝鮮王朝実録では、『宣祖実録』で「精兵10万人が大敗」、『宣祖修正実録』に「全軍溺死」、「壮士のうち生存者3人」等と記述されている。

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