平安時代の釈奠
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 07:29 UTC 版)
平安時代の中央(大学寮)における釈奠は、中国のそれと同様に斎戒、陳設、饋享(ききょう)、講読、饗宴の5つによって構成されていた。陳設とは供物を供えること、饋享は司祭者(日本では大学頭)が先師先聖の神前で行う祭祀を指す。時期によって多少異なりながらも以下の手順で行われていたと考えられている。 釈奠の当日、上卿が大学寮の廊門座に着座。召使の連絡により大学寮は廟堂の戸を開く。王卿らは起座。手水が用意され、王卿は壇上西辺に昇り手を洗う。弁官や少納言は壇下にて手を洗う(斎戒)。参列者は廟堂内に入り、着席を行い、準備が整えられる(陳設)。続いて、孔子及び孔子十哲の画像に幣帛及び酒食を供えて大学頭が祭文を読んで自ら祭壇の酒を飲み干し、参列者が拝礼すると神人共食のための三献が振舞われる(饋享)。それから参加者は再拝(拝廟)の後に廟堂の西にある都堂に移動してそこで一同列立、博士らは礼服を着用して参入する。音博士が題を読み上げると大学属が如意をとって問者に授け、問者は座を立ち登壇して7種類の儒教経典(『孝経』『礼記』『詩経』『書経』『論語』『易経』『左伝』)の内から順次選定されたテーマによって議論を行う(講読)。この議論を七経輪転講読という。講読の後には饗宴が行われたが、後には大学寮の廟堂で行われる5・6巡の献杯を行う寮宴と都堂に会場を移して行われる百度座(ももどのざ)に分離した。百度座及びその後の宴席は日本独自の宴席であったが、後に寮宴が儀礼化するとともに七経輪転講読の前に行われるようになる(『西宮記』や『北山抄』では講読の後に寮宴が行われたとあるが、『江家次第』では講読の前に寮宴が行われたと記されている)。百度座の終了後に王卿と得業生らが退出して、宴座・穏座が開かれる。宴座には五位以上の参列者が参加し『論語』『孝経』など儒教経典に関する問答が行われていたが、後に儒教(明経道)だけではなく、数学(算道)と法学(明法道)の問答も行われるようになった。これを三道論義と呼ぶ。続く穏座(おんのざ)は大饗や節会の後の穏座と同様にくつろいだ宴が行われ、紀伝道の関係者によって儒教に関連した話題による文人賦詩が行われる。平安時代に8月の釈奠の翌日に内裏で議論する内論議(殿上論義・後朝論義)が恒例化する。これは唐における天子視学の代替的な行事であったと考えられているが、前述のように天子が自ら師に拝礼するという中国における釈奠のあり方とは反対の性格を有していた。
※この「平安時代の釈奠」の解説は、「釈奠」の解説の一部です。
「平安時代の釈奠」を含む「釈奠」の記事については、「釈奠」の概要を参照ください。
- 平安時代の釈奠のページへのリンク