平安時代中期以降とは? わかりやすく解説

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平安時代中期以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 04:38 UTC 版)

大伴氏」の記事における「平安時代中期以降」の解説

天慶2年939年)に伴保平が6ヶ国の国司勤め上げて72歳にして参議に任ぜられ、伴氏として75年振り公卿となる。保平は高齢保ち天暦4年950年従三位にまで昇り翌年には朝臣姓に改姓するが、結果的に伴氏としては最後公卿となった平安時代前期までは紀氏並んで武人故実伝える家とされたが、そのような扱いを受けることもなくなり、多く地下官人などになっていった。戦国時代頃までは佐伯氏和気氏百済王氏とともに天皇即位の際などに氏爵を受ける氏族とされていた。主な地下家には、保平の後裔主殿寮官人務めた小野家善男後裔称し桂宮家諸大夫務めた尾崎家がある。小野家江戸時代極官従四位上尾崎家の極官正四位下縫殿頭。尾崎家のうち江戸時代後期尾崎積興は81歳の長命保ち従三位叙せられた。

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平安時代中期以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 21:21 UTC 版)

一品親王」の記事における「平安時代中期以降」の解説

摂関政治期になると、后腹以外の天皇の子女は臣籍降下する例がほとんどとなり、一品叙位条件二品経歴よりも天皇摂関との関係が重視されるようになったまた、為平親王敦康親王のように皇位継承において優位だった親王皇位断念せざるを得なくなった代償授けられるケース生じた藤原氏策動皇籍復帰させられ兼明親王(元・左大臣源兼明)の一品叙位近似の例と言える)。特に内親王への一品とりわけ藤原道長の孫や曾孫対す叙位多く見られるうになる醍醐天皇から後朱雀天皇までの子女のうち一品叙されたのが男性4名に対して女性9名でうち4名が道長の孫あるいは曾孫にあたる内親王であった)。こうして一品親王重要性急速に失われていき、天皇・あるいは外戚庇護受けた親王内親王への待遇付与へと変質することになった

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