平安時代中期以降
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天慶2年(939年)に伴保平が6ヶ国の国司を勤め上げて72歳にして参議に任ぜられ、伴氏として75年振りに公卿となる。保平は高齢を保ち天暦4年(950年)従三位にまで昇り、翌年には朝臣姓に改姓するが、結果的に伴氏としては最後の公卿となった。平安時代前期までは紀氏と並んで武人の故実を伝える家とされたが、そのような扱いを受けることもなくなり、多くは地下官人などになっていった。戦国時代頃までは佐伯氏・和気氏・百済王氏とともに、天皇即位の際などに氏爵を受ける氏族とされていた。主な地下家には、保平の後裔で主殿寮の官人を務めた小野家、善男の後裔を称し桂宮家の諸大夫を務めた尾崎家がある。小野家は江戸時代の極官は従四位上、尾崎家の極官は正四位下・縫殿頭。尾崎家のうち江戸時代後期の尾崎積興は81歳の長命を保ち従三位に叙せられた。
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平安時代中期以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 21:21 UTC 版)
摂関政治期になると、后腹以外の天皇の子女は臣籍降下する例がほとんどとなり、一品叙位の条件も二品の経歴よりも天皇や摂関との関係が重視されるようになった。また、為平親王や敦康親王のように皇位継承において優位だった親王が皇位を断念せざるを得なくなった代償に授けられるケースが生じた(藤原氏の策動で皇籍に復帰させられた兼明親王(元・左大臣源兼明)の一品叙位も近似の例と言える)。特に内親王への一品、とりわけ藤原道長の孫や曾孫に対する叙位が多く見られるようになる(醍醐天皇から後朱雀天皇までの子女のうち一品に叙されたのが男性4名に対して女性9名でうち4名が道長の孫あるいは曾孫にあたる内親王であった)。こうして一品親王の重要性は急速に失われていき、天皇・あるいは外戚の庇護を受けた親王・内親王への待遇付与へと変質することになった。
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