宇部興産の伊佐進出により専用側線へ
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「伊佐軌道」の記事における「宇部興産の伊佐進出により専用側線へ」の解説
戦時中も生き残った伊佐軌道であるが、転機が訪れることになったのは宇部興産の伊佐地区への進出である。 実は1921年(大正10年)渡辺祐策は伊佐町高ノ峯の石灰石鉱山を買収し、1923年(大正12年)9月に前身の宇部セメント製造を設立し、いざ採掘しようとしたところ採掘権は山の中腹にあり麓には日本石灰工業の工場と伊佐軌道があった。当然日本石灰工業の私有地を通らねばならなかったので買収を申し出たところ。中村直三郎は拒否した。宇部政財界のトップに立つ渡辺祐策の力であっさり買収できるとおもっていた宇部セメント製造は一向に交渉が進まず困惑したが、時間も迫っていたので中村の要求をことごとく受け入れようやく1924年(大正13年)4月道路用地と石灰工場売買に関する仮契約を結ぶことになったのだが、ここで福岡県恒見の石灰石山を利用することに方針を転換し、結果として伊佐町高ノ峯の石灰石鉱山は戦後まで放置されることになった。 しかし放置されている間も宇部セメントは日本石灰工業組合と1935年(昭和10年)9月に「日本石灰工業組合が所有する伊佐軌道株式を譲り受ける」「宇部セメントと日本石灰工業組合の共同で伊佐軌道を専用側線にする」ことの契約をし、伊佐軌道の役員を宇部セメントの関係者に交替するなど事前の準備はすすめていたのである。 やがて多年の採掘により恒見の石灰石山が枯渇してきたので1946年(昭和21年)9月伊佐採石所を発足させ10月から伊佐町高ノ峯の石灰石鉱山の開発に着手した。そして11月麓にある日本石灰工業所第二工場と伊佐軌道を買収することになりようやく1924年の仮契約が履行されることになったのである。伊佐軌道の全株式のうち宇部興産が1370株、日本石灰工業所が630株を所有することになった。当然馬車軌道では輸送力に限界があったので輸送力増強を図るため国鉄と同等の規格の路線の敷設を計画した。そして宇部興産の中安閑一が専用側線敷設の認可を受けるため大阪鉄道管理局へ赴いたところ、たまたま旧知の佐藤栄作運輸省事務次官にであった。佐藤は中安の話を聞き全面的な協力を約束し、工事はすみやかにおこなわれたという。こうして1947年(昭和22年)8月12日に専用側線(現・伊佐セメント工場専用線)は開通し伊佐軌道は廃止となった。
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