戦後まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 10:22 UTC 版)
戦前より蒸気機関車には黒色、客車にはぶどう色1号、電気機関車・ディーゼル機関車および電車にはぶどう色2号の塗装が採用されていた。これは、蒸気機関車の煤煙やブレーキの制輪子によって汚れるため、明るい塗装をしないほうが良いと考えられたことや、塗装にかかるコストが捻出できなかったとも言われていた。ただし、気動車については1935年以降藍青色と灰黄色の塗り分けが採用されており、戦前唯一の軽快色とも言われていた。また電車も京阪神地区の急行電車用として製造されたモハ52形は登場時から1942年の急行運転廃止までクリーム色と茶色の塗り分け(時期によりパターンが異なる)がなされていたほか、関東地区でも1940年に予定されていた東京オリンピックに向け「オリンピック塗装」と呼ばれる数パターンの塗り分けが試験的に施されたことがあった。 戦後の1948年に、線路を共用していた山手線と京浜東北線の誤乗防止のため、山手線用電車を緑色(用途の途絶した軍用塗料の流用といわれる)に塗ったことがあったが、両線用の電車の転属が相互に繰り返されたことによる混乱や、共用区間の複々線化決定により長続きしなかった。
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