孫文側近として
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中華民国成立後、馬超俊は黎元洪の都督府で顧問となった。しかし黎が袁世凱支持を強めると、馬はこれに反発して批判活動を展開したために収監されてしまう。幸いにして、温宗尭・伍廷芳らの手配もあって短期間で釈放された。1914年(民国2年)、袁を支持する広東都督竜済光の配下馬存発を、刺客を放って暗殺したため、馬は日本へ亡命した。1916年春、中華革命党に入党していた馬は、同党に加入していたパイロットの坂本寿一と協力し、滋賀県に航空学校を創設、革命派の人物を訓練させたという。1917年に馬は帰国し、北京に民間航空学校の創設を計画したが、張勲復辟により断念した。 同年9月、孫文が護法運動の一環で広州で軍政府を成立させると、馬超俊もこれに参加し、労働運動の組織に従事した。これにより組織された労働組合として、南洋煙草公司職工同志会、粤僑工界聯合会、広東機器工人維持会などがあげられる。旧広西派(旧桂系)や陳炯明との紛争でも、馬は労働組合を指導して孫支持を堅持した。その後、広東兵工廠廠長となり、1924年(民国13年)、中国国民党広州市党部執行委員兼工人部長に任ぜられている。しかし、馬は労資合作(労使協調)を唱える立場で、孫が推進する三大政策には反対の立場であった。
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孫文側近として
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同年3月、長年の盟友・宋教仁が暗殺されると、覃振は悲憤から袁世凱を暗殺の主犯として激しく糾弾した。その結果、袁が派遣した警察から取締りを受け、やむなく覃は日本に亡命している。1914年(民国3年)、覃は先に黄興支持派の欧事研究会に加入したが、その後、孫文(孫中山)の中華革命党に転じ、革命活動の統一のためにも欧事研究会は解散すべきと主張した。1915年、覃は東京で反袁活動を展開していたところ、同志たちとともに日本の官憲に一時拘束、収監されている。 1915年(民国4年)12月に護国戦争が勃発すると、覃振は湖南に戻り、親袁の湖南都督湯薌銘討伐に従事し、翌年7月に湯を敗走に追い込んだ。その後は中華革命党の地方機関である正誼社を湖南省に設立し、尤璋が社長、覃が副社長となっている。1917年(民国6年)に孫文が護法運動を開始すると、覃もこれに参与し、さらに南方政府派の各軍と連携して安徽派の湖南都督傅良佐の駆逐に成功した。 その後、覃振は広州に移って孫文の側近を務め、1921年(民国10年)5月、総統府参議兼法制委員に任ぜられる。同年冬、孫文が北伐を開始すると、覃は孫から党務を委ねられ、湖南などで宣伝工作に従事した。1922年(民国11年)10月、孫文が中国国民党の改組を開始すると、覃が党章の起草を担当している。 1924年(民国13年)1月、国民党が第1回全国代表大会を開催すると、覃振は第1期中央執行委員に選出された(以後、第4期まで連続再選し、第5・6期は中央監察委員に選出)。全国代表大会の後、覃は漢口執行部常務委員に任ぜられ、両湖での党勢拡大に尽力している。ただ覃本人は、孫文が推進する国共合作には内心反対であった。
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