太田川の開発と豪雨災害
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 08:26 UTC 版)
広島県の旧安芸国地域を主要な流域とする太田川は、古くは福島正則など広島藩による治水・利水事業が実施されていた。しかし「暴れ川」である太田川は洪水を繰り返し流域に大きな被害を与えた。明治時代以降、軍都として発展する広島市の治水対策は特に重要視され、太田川放水路が内務省の手によって1934年(昭和9年)より着手され、太平洋戦争による中断を挟み、1965年(昭和40年)に完成する。利水では1912年(明治45年)7月に広島電灯による亀山発電所の運転開始後、太田川水系でも水力発電開発が進み、1935年(昭和10年)には滝山川上流に王泊ダムが完成した。1957年(昭和32年)にはかさ上げによるダム再開発事業が実施され、発電能力を増強。太田川本流の立岩ダム、支流・柴木川の樽床ダムと共に「太田川三ダム」として地域の電力需要に応えた。 太田川放水路の完成で広島市中心部を含む太田川下流部は治水安全度が飛躍的に向上したが、反面上中流部においては部分的な河川改修が行われる程度で本格的な治水事業には進まなかった。前述の「太田川三ダム」は水力発電専用であり、洪水調節は目的に有していなかった。1964年(昭和39年)の河川法改訂で太田川水系は翌1965年(昭和40年)に一級河川の指定を受け、広島湾河口から73.5キロメートル地点上流、現在の安芸太田町戸河内付近までが直轄管理区間として指定され、同年に治水の基本計画である「太田川水系工事実施基本計画」が策定された。また1966年(昭和41年)5月17日には建設省河川局長通達・建河発第一七八号が発令され、発電用ダムなどの利水ダムに関しても治水に対する責務が明確化。「太田川三ダム」は通達第一類ダムに指定され、多目的ダム・治水ダムに準じた洪水時の放流対策が義務付けされた。しかし、太田川中上流部の治水対策は万全とは行かなかった。こうした中、1972年(昭和47年)7月、梅雨前線による集中豪雨(昭和47年7月豪雨)が中国地方全域を襲い、太田川水系では特に滝山川・柴木川上流域で総降水量が600ミリを超えた。この豪雨により太田川は1948年(昭和23年)に定められた計画高水流量毎秒6,000立方メートルを上回る洪水となり旧加計町を中心に大きな被害を与えた。
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