大山倍達の死去から名称変更まで
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「新極真会」の記事における「大山倍達の死去から名称変更まで」の解説
1994年(平成6年)4月26日に極真会館創始者の大山倍達が死去し、松井章圭を館長とする新体制が発足したが、高木薫ら5人の支部長が遺族と共に大山の遺言に疑義を示して離脱したのをきっかけに、翌1995年(平成7年)4月5日に国内支部長全48名のうち、35名の支部長が松井の解任に賛成した。35名は三瓶啓二を中心とした支部長協議会派を結成。同年には遺族派(現極真会館 宗家)と合併し、大山智弥子を館長に擁立し、一時的に最大会派となった。実際の組織運営の長である代表理事には西田幸夫が就任したが、マスコミからは館長の名を取って大山派と呼称された。しかし同年に川畑幸一ら9人の支部長が松井章圭派(現極真会館松井派)に戻った。また、運営で高木がかつて福島支部創立で確執があった三瓶と再び対立し離れた。 1996年、1月26日に分裂後初の大会となる第6回全世界空手道選手権大会を横浜アリーナで開催した。平行して第1回女子世界空手道選手権大会も行われた。同年には全日本女子空手道選手権大会も開催された。3月6日にのちの総本部となる国際武道センターを飯田橋にオープンした。 1997年、6月23日にIKO総会が開かれ、国際空手道連盟会長に西田幸夫が、副会長に三瓶啓二が就任した。この年に開催された第14回ウエイト制大会から、軽中量級と軽重量級を増設し5階級となったが、第17回大会から3階級に戻った。また、6月22日に体重別の世界大会である第1回カラテワールドカップを開催。当初から女子の部が設けられたが、第1回大会は軽量級、重量級のみであった。 1998年、智弥子が館長を辞め、代表理事に三瓶が、副代表に緑健児が就任した。国際理事であるIKO会長は西田が続投した。これ以降、緑の代表就任までの期間は「三瓶派」と呼称された。 1999年、第7回世界大会の終了後、三瓶は記者会見を開き「極真の唯一の世界王者は岡本徹である。異論があるならば松井派との対抗戦も辞さない。」と宣言したが、松井は「選手に代理戦争をさせるのか」と一蹴し実現しなかった。 2000年、2月18日の総会選挙で緑健児が代表理事に就任。同日、西田幸夫、増田章から提出された退会届を受理した。4月26日七戸康博がIKO会長に就任した。緑の就任以降、新極真会への改称までの期間は「緑派」と呼ばれた。5月26日、鈴木国博がコロシアム2000に出場し、ルシアーノ・バジレと対戦した。また、同大会では緑が演武を行った。 2001年、1月12日に東京ステーションホテルにおいて当時国際空手道連盟会長だった七戸康博、理事の田畑繁、長谷川一幸、大石代悟らが「極真連合会」発足の記者会見を開く。 当初、NTTタウンページへの広告掲載に対する松井派の妨害へ派閥を超えて独自の裁判で対抗する有志のグループとしていたが、のちに上記の支部長の離脱により組織化した。第2回カラテワールドカップの開催直前だったこともあり、離脱支部長が抱える日本代表選手の出場資格は剥奪されなかった。七戸の離脱により国際空手道連盟会長に緑が就任した。6月23日にハンガリーのブダペストで日本国外での初の国際大会となる第2回カラテワールドカップを開催、これ以降、同大会は第3回以外は日本国外で開催される。 分裂以降、「我こそが極真会館」と主張していたが、商標権裁判に敗れ、名称変更を余儀なくされた。現在は、極真会館(松井派)や全日本極真連合会等が名称を使用(→極真会館#分裂騒動)。
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