多賀一との出会い - 独立
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「尾形藤吉」の記事における「多賀一との出会い - 独立」の解説
1911年元旦、藤吉は菅野のもとを離れ、明治天皇の御召馬車の御者として宮内省主馬寮に勤める多賀一に専属騎手として抱えられることになった。多賀は御者のかたわらで新橋に料亭を経営し、やはり料亭経営の次弟・平岡広高、末弟・多賀半蔵と共同で「Hクラブ」という名義を用いて競走馬を所有していた。Hクラブはそれまで美馬孝之を専属としていたが、美馬は当時チリからの招聘を受けて離日する予定で、その後任として藤吉が求められたものだった。多賀との出会いにより、藤吉は宮内省の運営になる下総御料牧場、および御料に匹敵する二大牧場として数々の名馬を輩出する小岩井農場との間に、優先的な繋がりを築いていくことになる。 藤吉はHクラブが所有する祐天寺の厩舎に移り、5月末には目黒競馬場で移籍後最初の開催を迎えたが、新呼馬戦(新馬戦)での騎乗中に進路妨害を受けて馬もろとも転倒し、16日間意識不明となる事態に陥った。覚醒後は快方に向かったが、多賀の妻が厄払いとして藤吉に改名を勧め、姓名判断から藤吉は「景造」を名乗ることとなった。以後この名前は太平洋戦争後に戸籍名での登録が義務づけられるようになるまで使用された。 以後騎手として復帰し、Hクラブの所有馬アスベル、トクホといった馬で成績を挙げた。特にトクホは当時最大級の牧場であった小岩井農場の生産馬で、藤吉が手掛けた最初の小岩井馬であった。Hクラブの次弟・広高の所有馬だったが、同馬がデビューした1915年当時は広高の料亭「花月楼」が経営難に陥っていたことから売却も視野に入れられていた。しかしトクホは当時の大競走である優勝内国産馬連合競走(連合二哩)を制して賞金3000円を獲得し、花月楼の経営を救うことになった。また、藤吉は同競走で1番人気だったミツイワヰに騎乗していた重鎮・北郷五郎とこれを機に親しく交わるようになり、のちにトクホを「名馬以上の馬で福の神」と称えている。 翌1916年には多賀一の勧めで主馬寮に勤務する梶山甲造の娘・栄子と結婚。約半年後、半蔵の死去や広高の多忙化でHクラブの運営が難しくなったことから、多賀一より独立を勧められる。藤吉は北郷に相談した後この提案を受け容れ、祐天寺の厩舎を譲り受けて騎手兼調教師として独立した。独立当初の管理頭数は5~6頭であった。 藤吉は独立後、目先の勝利よりもまず充実した厩舎の下地作りに力を注いだ。1918年には最初の弟子となる美馬信次(Hクラブ専属だった孝之の弟)が入門。同年藤吉はシンオーミフジに騎乗して最高級競走の帝室御賞典(春季・阪神競馬倶楽部)に初優勝しているが、雨漏りする厩舎の屋根を葺き替えることができないほど財政面では苦しかった。 1923年7月1日、馬券発売に法的根拠を与える新制競馬法が施行され、15年ぶりに馬券発売が復活した。翌年春の目黒開催では前年秋の優勝内国産馬連合競走を制していたスターリングが競走中の事故により死亡する不幸に見舞われたが、それに代わってチヱリーダッチェス、アストラルの牝馬2頭が活躍し、前者は1924年春の帝室御賞典(横浜)に優勝、後者は1927年秋の内外国産古馬競走や帝室御賞典(横浜)に優勝した。チヱリーダッチェスは抽せん馬、アストラルは購買額1350円という安馬だった。大正末期から昭和初期にかけては、ほかにもフロラーカップ、クヰンフロラー、キングフロラー、アスベル、カイモン、クヰンホークといった馬で大競走を次々と制した。また、この頃には大久保亀治、岩佐宗五郎、二本柳勇、古賀嘉蔵といった弟子達が騎手として成長し、活躍をはじめた。
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