地租改正から地租条例制定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 04:16 UTC 版)
江戸時代の田畑貢納制(年貢・田租)は物納でしかもその課税基準・税率が藩ごとにまちまちであったものを統一するために地租改正を行い、その結果に基づいて年貢・田租に替わる新しい租税として導入された。 1873年7月28日に制定された地租改正法(太政官布告第272号)は、上諭と従来の田畑貢納制を廃止して地価の100分の3を地租として新たに徴収し、併せて村に納める税である村入費は地租の1/3以内とする内容の1条から構成され、詳細な実施方法については別紙として同時に公布された地租改正条例(7条)において定め、地租改正のための土地調査が終わった場所から順次新税に移行するものとした。 地租は土地の収益から算定された地価の3%を金納(貨幣による納税)で行うこととした。地価の算定には収穫米から種肥代・地租・村入費を差し引き、一定の利子率で資本に還元することで算定することとなっていた。 だが、実際の地租改正の作業は「旧来の歳入を減じない」という目的が併せ持たれたために、旧年貢を引き継いだ高額の納税となった(なお、地租改正条例第6条には物品税(商工業の課税)歳入が200万円以上に達したら地租を減税し、最終的には1%にまで引き下げることを明記するなど、明治政府自身が高額の課税であることを自覚していたのである。また、元来地租改正の推進論者であった木戸孝允も減税策としての地租改正を構想していたために、この高税率には最後まで反対したと言われている。)。 ところが、地租改正の実施に対して各地で地租改正反対一揆が各地で発生し、政府は1874年1月に地租を2.5%に引き下げることを発表、続いて5月に地租改正条例に第8条を追加して地租の5年間据置を定めて勝手な引上げを行わないことを約束した。なお、近年では地租改正反対の動きは一揆のような直接行動だけではなく、自由民権運動と結びついた合法的な方法による抵抗運動の存在も多く確認されていることに注意が必要である。 1881年6月30日に地租改正を専管した地租改正事務局が廃止されて地租改正の事実上の完了が宣言されて、最終的に日本全国で新税が施行された。だが、将来的な地租軽減を義務付けた改正条例第6条及び5年間の地租据置を定めた第8条などが、当初の予定通り1885年の地価改訂(地租の引上げを行いたいとする思惑含み)を予定していた政府方針の妨げになると考えた政府は1884年3月15日に地租条例(明治17年太政官布告第7号)を公布して地租改正の実施の際に生じた規定の混乱を整理するとともに、旧条例の第6条及び第8条相当部分を廃止して明治政府に課されていた地租軽減・据置の義務を「なかったこと」にしたのである。なお、1878年の地方税規則によって村入費に替わる町村への租税として地租割(後に地租付加税)が導入されて戦後の地租の地方税移譲まで続けられている。
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