啓蒙と人権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 14:28 UTC 版)
明治維新において、イギリスとフランスの市民社会、特にイギリスの功利主義および社会的ダーウィニズム、フランスの国民主権とジャン=ジャック・ルソーが紹介された。 明治初期の思想家は西洋の市民社会の中でもイギリス的な啓蒙を唱えた。彼らは日本の伝統的な権力や封建社会を批判しようとした。しかし、彼らは結局政府と迎合して抜本的でない上からの近代化を受け入れた。1873年に、森有礼が明六社を結成した。この文化的会合に参加する人々は実学重視、人間の特徴を実践的につかむこと、国情に合った政府の形成を理想とすることといった点を共有していた。森有礼は文部卿として国民教育の普及に努めた。横井小楠は、幕末に実学党を結成して門閥制度に代わる能力主義や共和思想を反映し、儒学・朱子学の流派に影響された実学を提唱した。 福沢諭吉は科学技術やアレクシ・ド・トクヴィル、英国文明論を日本に紹介して、自然権は当然人権が天賦のものであることであると唱えた。彼は文明の発展は人間の精神の発展であり、人の独立は国家の独立を導くと考えた。「便宜のために」政府は存在し、その出現は文化に見合ったものであると福沢は考えた。政府の唯一の理想的な形など存在しないと彼は言った。また、日本は列強に対抗して大陸へと対外進出するべきだと彼は主張した。西周は人の振る舞いはその人の持つ関心に基づくと断言した。加藤弘之は社会的ダーウィニズムの影響のもとで自然権を放棄し、代わりに適者生存を唱えた。 明六社のメンバーは結局政府と人民の調和を唱えたが、民主思想家はフランスの基本的人権を吸収し、西南戦争後に明治寡頭制に対して言論によって国民が反抗・革命を起こすことを支持した。1874年に、板垣退助が民選議院設立建白書を提出した。このことが自由民権運動として日本中に広まった。植木枝盛は板垣を支持して基本的な草稿を作成した。ルソーに強く影響されて、中江兆民が主権在民と個人の自由を主張した。しかし、日本の状況を考慮して、彼は立憲君主制の重要性に言及している。彼によれば、大日本帝国憲法は議会によって徐々に改正されるのが望ましいということであった。
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